心の鎖
子どもの頃に身につけてしまった「こうあるべき」「こうするべき」「してはいけない」を、一つ一つ自分の心から引き剥がすことをしている。
自分には、瞑想という形がしっくりくることも、少しずつわかってきた。瞑想の仕方がわからなくて、これで大丈夫だろうか、何か間違ってるだろうか、と考えてしまったり。うまくいったり、いかなかったりを繰り返しつつ、自分なりのやり方を模索している。
振り返ってみれば、大人になってからはずっと、特に子育てをするようになってからはさらに、心の鎖をすこーしずつ解除してきたようにも思う。でも、ここ最近は一気に作業が進んでいるような感じ。もう外しても大丈夫、と思えるような心の準備が整ってきたのかもしれない。
最近外れた心の鎖
最近の中で大きかったものがいくつかある。
まずは、「人に嫌われてはいけない」という鎖。鎖に巻かれている間は、人に嫌われないよう万全を尽くしてきた。そして嫌われているかも、と反応して勝手に傷つく。鎖が外れた今となっては、どう頑張っても人に嫌われるし、万人に好かれるのは不可能だ、とか思うけど。
「人を嫌いになってはいけない」も表裏一体のものかもしれない。自分も人のことを嫌いになってはいけないし、人からも嫌われてはいけない。人を嫌いに感じても、そこは蓋をして、誰にも悟られてはいけない。自分も見て見ぬふりをしなくてはならない。鎖を外すと、嫌いであることはしょうがない、と受け止められる。ただ、それを人に見せるのはやめておこう。と思えている。自分も見て見ぬふりをしていると、すごく心が締め付けられる感じがして身動きが取れなくなっていた。
「人を傷つけてはいけない」もこの流れの先にある。傷つけてしまうから嫌いなことを見せてはいけないし、人から嫌われているということに自分はすごく傷つけられる。でも、どうしても人を傷つけてしまうことはある。なんだったら、自分が存在するだけで人を傷つけてしまうことすらあって、人を傷つける自分に、また自分が傷ついてしまうという悪循環。この鎖を外すことで、少なくとも、この悪循環は断ち切ることができる。傷つくかどうかは、相手が決めることだ。
瞑想と思い出
きっかけは、自分の言葉が人を傷つけてしまったのではないか、という苦しみだった。なぜそんなに苦しいのか。夜中に一人、瞑想を始めてみる。
今の私にやりやすいのは、階段を下りていく瞑想。自分の足元をイメージしながら、しっかり足を踏みしめて階段を下りていく。そのときによって、洞窟っぽかったり、室内のカーペット敷きの階段だったり、雲みたいなふわふわだったり。そしてドアを見つけて、開けて入っていく。
上に書いた鎖を外すことになったときは、小学生だったころを思い出していた。
暴れん坊の子がいた。気に入らないことがあると、すぐ暴れる。それが嫌だったけど、なぜか私はその子に気に入られていて、というか、甘えられていて、一緒に時間を過ごすこともあった。たぶん、私も浮いた存在だったからかな。
ある時、何かが起きて、その子について先生と数人の子どもで円になって話し合いが行われた。本人はそこにはおらず、本当はみんな、どう感じているの?みたいな話だった。それぞれ気持ちを言う。私も、本当のことを言った。気持ちを抑えられず暴れているその子が「怖い」と。そのことが、直後に本人の耳に入ったらしい。私のことを探しに来て「怖いって言ったん!」と殴りかかってきた。顔を殴られて、私は夢中で反撃し、その子を蹴り返していた。
このとき、既に持っていた「本当の気持ちを言ってはいけない」の鎖がさらに私に巻き付いた。そして、「人を傷つけてはいけない」を身につけた。「人を嫌いになってはいけない」も。
このときまでは、その子をそこまで「嫌い」と思っていなかったかもしれない。ただ、「怖い」という気持ちを言ったことで、あぁ、傷つけてしまったんだ、と感じて、自分も傷ついた。その子にとっては、自分は最後の綱というか、嫌いな素振りをせずフラットに接してくる珍しい相手だったのが、「怖い」と断ち切られた感じだったのかもしれない。このこと以降、私は「嫌いになってはいけない」に抑圧されて隠された感情が「嫌い」という感情になり、それを見て見ぬふりをするようになったと思う。
大人の私から見て、殴られて怖い思いをしたのだから、「嫌い」や「傷つける」を禁止したのは、自然な流れだと思う。怖かったね、つらかったね、でも、もう今の私には必要のない鎖なんだ、と子どもの自分を慰めることができた。
嫌いなものはしょうがない。ちゃんと自分でその感情を受け止める。ただ、それを相手に見せて傷つけるかは別問題だ、と今は思える。
現実の問題
小学校時代のあの事件が、自分の中で大きなことだったんだなぁとかみしめる。で、そこまで遡ることになった原因の現実の問題を見つめてみる。
もう、お互いに気持ちが離れてしまっている相手と、「付き合わなければならない」ような気持ちで会っていたように思う。どちらにしても、もう数年会うことはないかもしれないけど、あえて、お互いに頑張って合わせて付き合う必要はないんだな、と長年の付き合いから手を離すことにした。また、そのうち、どうせ会いたくなる。それまでは、そっと離れていようと思った。
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