見出し画像

役に立たなくてもいい。ただ生きる。

自分が縛られている価値観を見つめている。

何かの役に立たなかったら、ここに居てはいけない私、を感じている。

何かの役に立って初めて、ここに居ることを許されるから、私はいつでも頑張ってきた。

小学校のとき、まわりと気が合わなくて……というよりは、いつでも自分を見てほしい!が全開の、うざい私は嫌われていたのだと思う。

一学年20数名の田舎の小学校。6年間クラス替えすることもなく持ち上がり。たまに住宅地が開発されて、転入生がちょこっと増えるものの、嫌でもみんな、ずーっと一緒。

自分は異質で、人から避けられる。
ずっと都会から田舎に引っ越してきたから、「違う」のだと思ってた。

でも今なら自分で認められる。小さい頃の自分は、私が一番!私を見て!私すごい!私!私!私!だったんだろうな。

そして、うまく言葉にならないことが多くて、困ったら泣くような子どもだった。
せめて、困ったときに「困った!」と言えてたら、もう少し楽だったんだろうな。
たいていのことはできちゃうから、人に助けを求めるなんて考えもしなかった。
そしてまた、私を見て!の悪循環。

「役に立つ私」という定位置

クラスでは、自分のことはさっさとやってしまって、人のことを待っている時間も多かった。

同じ学年に、障がい児学級に所属する子たちが数人居て、お世話係をするのが私の定位置になった。

たぶんその辺りで、お世話して役に立って、「ここに居てもいい」存在になったんだと思う。

今でも覚えてる。定位置を見つけるもっと前の話。
小学校の低学年の頃、みんなで「花いちもんめ」をやった。仲のいい友だちが多い子から選ばれていく。次は私?次こそ私?とドキドキ待った。でも、結局、最後まで名前は呼ばれない。あの子ですら呼ばれたのに?呼ばれなかった私の心は、自分を守るのに必死だったと思う。すごく傷ついた。

今思い出しても悲しくなる。
てか、先生!そこまで最後までやらなくてもよくない!?と今なら思うけど。ホンマひどい話やわ!!

うん。私、悲しかった。

そんな私が生き延びるには、「役に立つ私」という定位置が必要だったんだろうな。

ただ生きる?

役に立たなければ、私にはここに居る価値がない。

ふとした瞬間に、この考えに捕らわれる。

もっと頑張らなくちゃ。もっと役に立たなくちゃ。ここに居る価値を生み出さなくちゃ。

ちょっと無理をしてでも、いや、常に無理をして、自分が居ていいと感じられるまで頑張ってしまう。

ただ生きるだけでいい?
ここに居るのに誰かの許可は要らないらしい。

今を感じるだけでいい。
自分の心が喜ぶことを、罪悪感なく味わえばいい。

またあの考えに捕らわれそうになったら、口に出してみようと思う。

「ただ生きる」と。
私がここに居ることに満足してみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?