混み混み電車
大学卒業前最後の通学、いつもの電車に乗った。相変わらず滅茶苦茶に混んでいた。
満員電車に限らず人混みが得意ではないけれど、得意な人なんていないと思っているけれど、人混みにいるときに一つだけ好きなことがある。それは、色んな人の顔を見られることだ。
デパートのセールス、都心の駅、初詣。混雑の中にいると必然的に多くの人と押し押され合うことになり、そんな視界の悪い中で見えるものは沢山の「人の顔」だ。ぎゅうぎゅうの中で周りを見渡すと、世界には本当に色んな顔の人がいることが分かる。それが良いなと思う。
眉毛が太い人、細い人。吊っている人、垂れている人。目が大きい人、小さい人。近い人、離れている人。鼻が大きい人、小さい人。口が大きい人、小さい人。肌の色が濃い人、薄い人。輪郭が丸い人、三角い人、四角い人。ほくろが多い人、ほとんど無い人。ここで言う「大きい」とか「小さい」などというのは絶対的な規準があるわけではなく、相対的なもの、つまり個人がどう感じるかなので、ここでは私の主観に他ならない。
今、世の中には「整形」という美容が存在する。美容以外の目的の整形もあるが、ここでは美容整形の話に限定する。顔にメスを入れて目を大きくしたり、鼻を高くしたり、注射器で唇を厚くしたり、糸を入れて顔を小さくしたりすることを指す。経験が無いため詳しくないが、それでも名前くらいなら知っているのは、あまりにもたくさんの広告が街中に溢れているからだ。
美容整形は、電車の窓や動画サイト、web記事などあらゆるところに、クリニックの場所や手術法、値段などを書いた広告を貼って日々その市場規模を拡大している。それらを見る限り、今の日本の整形市場には「まぶたが二重であること」「鼻が高いこと」「顔が小さいこと」など、多くの人が好む「流行りの造形」がある。この状況に自分はすごく大きな違和感を覚える。美容整形自体への批判はしないが、「美容整形が流行る社会」はいかがなものかと思っている。
例えば、二重整形の話。
美容整形ではよく一重から二重への施術が行われている。それは今、日本で多くの人が「一重よりも二重の方が美しい」とか「かわいい」とか「かっこいい」と考えているためだ。そう感じる人をターゲットとした商法の一つが二重整形である(※「風潮」というそれ自体が大衆的なものを語るにあたり、以下の文章でも一部カテゴライズ的表現を避けられませんでした。本来こんな単純な話ではないです)。
造形美への好みには個人差があるので、一重より二重の方が美しいと思う人がいるのは自然なことで、逆も然りである。他者ではなく、そういう自分の感じ方や、他でもない確固たる意志で、なりたい自分になるため、と考えて二重整形をした人もいるだろう。
でも中には、日常の中で「一重の自分よりも二重の人の方が、他の人から褒められている」と感じたり、酷い場合だと実際に心無いことを言われて本当に傷ついたりしていて、それで自分も、もっとかわいい、かっこいいと言われたい、周りから認められたいという理由で、自分の意思より周りの目を気にして整形を選んだ人もいるのではないか。
今の日本社会において、二重を「一重よりも良いもの」とする価値観が人気なこと(不人気とは言い難いこと)は実体験も含めて感じ取っている。私のまぶたは一重なのだが、それゆえに感じてきた経験もある。自分の考えの裏付けとして、少し書こうと思う。
高校生の頃、私は下のまつげに逆さまつげがあって、定期的に数本の毛を抜いて目薬をさす簡単な治療をしていた。月に一度、病院に行き数本のまつ毛をピンセットで抜いてもらう。ちょっと痛い。その治療を続けて半年ほど。相変わらず私の下まつ毛の数本は外ではなく眼球に向って生えており、角膜を傷つけ続けていた。
そんな時お医者さんから、根本的治療として、下まぶたを切開する方法があると提案があった。皮膚の切開により、まつ毛の生え際の向きを変えられるらしい。でも、医療器具が体内に入ること自体への恐怖から、手術する気は起きなかった。正直に「怖いので……やめておきます」と伝えた。
その時お医者さんが「あ、でもね、あの手術は目がぱっちり大きくなったりもするよ」と言った。
手術で下まぶたを下げる分、眼球の見える面積が増えて目が大きく見えるようになるらしい。お医者さんはそれが、私というか、患者全般にとって「良いこと」と考えていたのだろう。その価値観にあまり共感できなくて「そうなんですね。でも大丈夫です」とお断りした。
帰宅後。家族に手術のことと、それをしないことを話した。
その時家族が「逆さになっているのが、上のまつ毛ならよかったのにね」と言った。
さっき書いた手術法は下まつげの話で、これが上側だと、まぶたを二重にして治すという方法になる(どちらにせよ皮膚の切開)。それで上のまつげだったら、逆さまつげを治すついでに医療保険適用で二重にできてよかったのにね、とのことで「上のまつげならよかったのに」だそうだった。何と返事したかは忘れてしまった。私が日常的に「二重になりたい」と仄めかしていたのならまだしも、そう思ったことはなく、当然話したこともなかった。
私は二重整形をしたい人、実際にした人を否定したいのではない。自分らしくあるための第一歩として、整形した自分を、それもまた自分の魅力の一つだと言って胸を張って前を向けるなら、整形をするのは手段としてありだと思う。言いたかったのは「一重より二重の方が『良い』だろう」という、個人の好き好きとしか言いようがない価値観や、あたかも造形に優劣をつけるかのような発言を人に向けていいのかということだ。上の二つの言葉が、私の心には今でも引っかかっているし、引っかかりじゃ済まなかった人がいることも知っている。
ザックリした表現だが、今の日本では、なるべく「左右対称」で「目が二重で大きく」「鼻が高く」「顔の小さい人」を「美人」「かわいい」「イケメン」と称賛する風潮が過剰に高まっている。それが今の日本の美容整形というビジネスにとって都合の良いことで、広告やマスメディアによって促されてきたからだ。その結果、テレビに出ている俳優やタレントなど「左右対称で、目が二重で大きく、鼻が高く、顔の小さい」インフルエンサーの顔を羨ましく思って、憧れを整形という手段に変えて、自分も似た顔を目指す。その変化を「前よりもかわいくなった」「かっこよくなった」とほめる人も沢山いる。広告が至る所にあるのがその表れではないだろうか。逆に広告があるから流行するのか。
先にも書いた通り、特定の個人が持つ美しさに目を惹かれるのは自由だ。私にも「この人の顔が好き」と思う人はいる。でもそれが行き過ぎて、定型的な「流行り」に変わるとなれば別の話だ。例の眼科医や私の家族のように、個人の感じる「美」を全員が共感するものと思い込んだ意見を押し付けるのは、趣味嗜好のあり方として行き過ぎている。そんな二人もまた、過去にそういう価値観の押し付けを経験したことがあるのかもしれないなと今は思う。
「二重まぶた」「鼻尖形成」「リフトアップ」その他いろいろ。そういう広告の影響で、一人一人が自分の価値観で自分を見る前に、外からの圧に耐えられず、社会側の価値観が優先されることがある。「今、美しくなるには二重が求められているんだ」「鼻は高くて細いほうがみんなに好かれるんだ」「小顔でスタイルが良くないといけないんだ」挙句の果てには「◯◯でないと愛されないんだ」などと感じて、それが現在そういう見目でない自分を卑下する要因となり、異なる価値観がどうしても認められなくなって、画一的になって、その結果、目が大きく鼻が高く左右対称な顔には、今、確かに経済的価値がある。でもそれは「そういう特定の顔に経済的価値を持たせる社会になってしまった」のであって、異常なのは「流行している顔がある社会」の方ではないだろうか。異常というか、そんな世界じゃ苦しくて仕方がないと思うのは自分だけだろうか。
一重の人も、頬がふくらんでいる人も、丸い鼻の人も、「あなたのそこが好き」と思う人がいる。それを「コンプレックスなのだろう」だとか「治すべきものだ」などと、見た瞬間に自分にも他者にも思うのであればそれこそ病的だ。美容整形は、全員揃ってやるものではない。他の人ではなく自分のためにしたい人が自分の意思でやる。それでいい。それ以上いかなくていい。街中のスペースを使ってまで二重埋没や鼻尖形成やリフトアップを勧めなくていい。色んな顔の魅力を語れるのが本来の意味での多様性なのではないか。それが自分の思うところだ。
でも、今「整形に対して肯定的であること」が令和の多様性の一つとしてあるように感じる。整形をしたいと言う人に対して、ノータイムで「整形ね、私は自由だと思うよ」「あなたがしたいならすれば良いと思う」「自分磨きの一つだよね。努力して変わろうとするあなたは偉いよ」と、肯定的に返答することや、そういう発言が、多様性を担保する「最先端な考え方」という風に受け取られている気がするのだ。これも危険があると思う。「他者の整形を肯定すること」がどのような意味を持つのか考えるのには、もっと、相応の時間がかかるのではないのか。
「美容整形は多様性の一つ」という主張は、するかしないかを自分で選択することができる、それを社会が権利として認めるという意味で「多様性」なのかもしれない。でも、今日の美容整形という行為自体は、多様性に牙をむく可能性を大いに孕む。
理想の自分に近づくためにあるはずの手段は今、流行りの顔を目指す排他的なものになっていて、広告が促す整形の多くは、鼻を高くするとか二重にするとか限られた「良いとされる造形」を目指す商業的な意味を持つ。それが流行るなんてむしろ一番多様性からかけ離れていかないだろうか。多様性と言いながら皆が同じような美意識になってしまうのであれば。
何度も言うが、整形だって個人の自由だ。 だがそれを「『社会』が肯定し」「促し」「流行る」ことはダメなんじゃないだろうか。上のような発言は、ともすれば整形をしたい人の背景を聞かずに肯定する「促し」になりかねない。「整形をしても良い」と「整形をした方が良い」はぜんぜん違う。
元の顔が社会から評価されないからとメスを入れる行為について、話も聞かずにただ「いいんじゃないの、いいんじゃないの」と言うのは煽りに近い。その目指す先が流行りの顔なのだとしたら、いずれ「流行りの顔でない」というだけで一目で相手をさげすむような貧しい感性の持ち主が増えていく。そんなの良くないというか、悲しいと思う。美容整形を考える上で大切なのは、肯定的意見よりも、「整形をしたい」と考える人が、なぜそう思うようになったのか、そこに至るまでに考えたことや、その人の育ってきた背景、環境について色んな人と話す時間ではないのか。そのやり取りを経た結果としてどうするかを決めるのが、今後の自分と向き合うために大切なのではないかと思う。どんなに心の狭い日でも、自分はこれを大切なものとして見失わずにいたい。
人混みを見ると、色んな顔の人がいる。それがなんだか良いなと思う。当たり前の光景なのにそう思う。あの中にも多分、整形をしたいと考えている人がいる。その理由も様々なのだろう。狭いし苦しいし全員知らない人なので何の感情も湧きやしないのだが、自分の知らない顔で溢れた空間の得体の知れない雰囲気にいいなと思う。滅茶苦茶に混んだ広告だらけの電車に乗りながら、人混みの一員はそう思っている。
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