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『魚人間』

『魚人間』


今日からここが僕の学校だ。

胸を張って、足を踏み入れた。

僕は今、人間の姿をしている。だけど小学生の頃までは、シーラカンスの姿をして、海の中を泳いでいた。今は姿を変えて、人の住む世界に「適応」している。手も足もあるし、歩くことも話すことも、人間のようにできる。

そんな魚人間の僕は、今日から大学に通い始める。芸術学部と教育学部のある大学。僕は教育学部の方。



――昔々、

大昔。

人間を恐れ、憎みながら、

それでも心の奥深い部分で

羨ましさを覚えて、人間に憧れた

一匹の魚がいた。


己の友を捕らえ、切り裂き、

食った人間に。

軽蔑の、透明な水を含んでどこまでも潤った軽蔑の目線を、

一刻も閉じることなく送り続け、

それでも憧れ、

「自分も、ああなりたい」

そう考えた一匹の魚がいた。

魚は人を思い続けた。ずっとずっと思い続けた。


――やがて、

彼は海から這い上がることを決意した。


彼を筆頭に、陸地を夢見る魚は後を絶たなくなった。

しかし、現実はそう甘くない。

勇敢な魚たちでも、はじめは酸素を求めて口をパクパクさせることしかできなかった。

強すぎる日光に干からびた。船着き場のコンクリートに焼かれた。雨風に曝された。通りすがりの猫のおもちゃになった。柔らかい肉球に触れられて舌で丁寧になめられて、最後は骨まで嚙み砕かれた。異臭を放つ生ごみと一緒にされ、ごみ処理場ですりつぶされたのもいる。「売り物にならんこともない」と評され、神経を抜かれて市場に並んだのもいる。誰よりも頑張った彼が売れることはなく、結局ごみ処理場行きだったという。

それでも魚たちは諦めなかった。

塩水も空気も無い世界で、彼らのための用意が無い世界で、活動は続いた。

勇ましく打ちあがっては死んでいく仲間に

「頑張った!」「よくやった!」と

声にならない声をかけた。

涙は水中に紛れさせて、

「あとは任せろ!」

また希望を抱き、次の仲間が水面へと自分の頭を泳がせた。歓迎の無い世界に向かって、毎日毎日藻掻き続けた。

全ては「人間の世界で暮らすため」に。


――やがて、

彼らの中の一匹が変形した。

ゲル状の足を生やし、腕を生やし、顔を作り、

少しずつ、少しずつ、人間の姿に似た何かになっていった。

賢い魚たちの仲間はついに人間になることが出来たのだ。

そうして成り代わった者たちが

少しずつ、少しずつ、

一匹、また一匹と。

二匹、三匹、四匹、

五匹、……六人、

七人八人九人と。




――今、人間の世界では

魚たちがあたりまえのように生活している。人間たちと一緒の家で、学校で、職場で、ごく普通に生活している。

元魚の人間たち。通称「魚人間」。

藻掻きながら陸地に上がった、あの勇敢な魚たちの子孫だ。

彼らは生まれ、成長し、就職活動をし(人事部に就いた者は、反対にイタズラで人間を落っことすこともあるのだとか)、今も様々な場所で、人間と一緒に世界を回すのに貢献している。



――これが、僕の母から聞いた話。

僕の「ご先祖さま」の話、だ。



正直……信じられない。

ちっぽけな魚が、何度も海から出ようとして、失敗する。それでも頑張って地上へと向かう。毎日それを繰り返して、続けて続けて……やがてゲル状の腕をはやす?それが皮膚になる?二足歩行を始める?言葉を話すようになる?そんなのありえない。非科学的だ。

どうせ親戚の誰かが作った出鱈目なおとぎ話だろう。




――でも、

休まらない毎日に疲れて息苦しいと感じたとき、僕は海に行きたくなる。音のくぐもる水の中で静かに眠ってみたくなる。


生まれた時から人間の形だった。魚の姿で泳いでいた気がするのも、多分気のせいだ。

小学生の頃のシーラカンスの記憶。あれも多分、いつか行った真夏の海水浴と、水族館で見た古代魚のホルマリン漬けが混ざっただけの、間違った記憶だろう。


――それなのに、どうして。

僕はこんなに海が好きだ。

毎日毎日、海が恋しい。

行ったことのない海ですら、そばを通ると懐かしい感じがする。つい足を止めてしまう。

何もかもを捨てたくなったとき、海風に吹かれると、ほっとため息をついてしまう。

それだけで、全てが何でも良くなる。明日のことが好きになる。


潮風が好きなのは、塩っ気があって、涼しいのに可笑しな味だから。

さざ波の音が好きなのは、母親の羊水の中で聞いていた水音に似ているから。

そう思っていた。そう教わった。

でも、本当にそうだったっけ。



――母親の中で眠っていた、自分だけがすべてだった時、世界はとても広かった。

目を閉じていた時、耳を閉じていたとき、

僕の世界は何処までも広く、大きかった。

でも今は――


どこかで揺蕩う日々を思い出し、僕はまた苦しくなる。まるで空気を求めて水面から顔を出した魚みたい。酸素を求めて死んだ、あの勇敢な魚たちみたい。


ーー大学からの帰り道、今日もたくさんの人と話し、たくさんの大地を踏んだ。

自分の居場所。

楽しい仲間たち。

今は全てがここにいる。

でも時々、

ここじゃない気がする。ここな気もする。でもここじゃない気もする。でも、ここな気もする。うん、きっとここだよ。だって楽しいじゃないか。ここだよ。絶対に。

でも、それでも、

今の僕の世界、なんだかとても小さい。


大切な仲間がいて、

学校は広くて、

酸素の濃度も十分で、

太陽がまぶしくて、

今日もいい天気。


なのに、

なんでこんなに僕は、

僕は、


――とにかく、そういえば、


ああ、


どうしよう。僕、


疲れた。




――薄暗い自分の家に帰る。僕の、小さくて暗くて、灰色みたいに青い家。

扉を開けると、部屋は都会の喧騒を少しだけ含む。ぱたんと閉ざすと、しんと静まった。


「ただいま」


小さな自分の声を聴く。その声が、頭の中に立ち込めていた世界中の音をふわりと搔き消した。

少しずつ消えていく。静寂に染まっていく。くぐもった音と、青くつめたい空気が体中を満たしていく。玄関の涼しさに頭がぼーっとして、動けない。

明かりのない部屋。

鍵を閉める音。

返ってこない返事。

薄暗い青の中で、僕はやっと息をする。

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