『帰宅』

『帰宅』


薄暗い青の中に、昼下がりの薄明りが少しだけ差し込んだ水色が広がっている。自宅アパートの一室の扉を開けると、部屋の奥からどっと海水が押し寄せた。
海草やプランクトンの混じったそれを、僕は全身に浴びる。勢いは暫くやまない。ごうごうと音をたてながら、潮の香りを漂わせながら、いつまでも部屋からあふれ出て僕の身体を濡らしていった。やがて水の勢いが弱まると、前に進めるようになった。ひたひたと、海水を滴らせながら、玄関にあがる。そして吸い寄せられるように水浸しの部屋へと入っていった。

部屋のドアを開けると、いつもの光景が広がっていた。キッチン、リビング、テーブル、テレビ、壁一面の大きな水槽。それらは全て、海の中にある。そう、この家は海なのだ。海と繋がっている、僕と家族の家。ふわりふわりと、目に見える全てが漂っている。

僕の家は、海の水で満ち溢れている。玄関から、廊下から、各部屋から、全て。家にいる間は、水中で暮らしているということだ。空気のことなら心配ない。僕は水の中でも息ができるから。むしろ陸地よりも楽だ。一度家に友達を呼んだら「まるで洪水の後だな。いや、洪水中、か」と言っていた。洪水だなんて。ニュースで見たそれはひどかった。あんなに泥まみれじゃないよ、僕の家。掃除は苦手だけど、洪水被害に遭った物件よりはずっと綺麗なものじゃないかと思う。

僕の家の海水は泥水ではない。深海の、深い深い暗い海の、綺麗な水で満たされている。それでいて食事もできるし、テレビだって映る。海の水でいっぱいなこと以外は、他の家と大差ないと思うのだけど。

着慣れないスーツの上着を脱ぎ、コート掛けのハンガーにかける。浮力に押し上げられてふんわりと浮かぶ服は、まるで昆布のようだった。一息つこうとしたその時、

「……おかえり……」

聞きなれた声が聞こえたような気がして、水槽の方を振り返る。いや、声というか、空気が。
ああ、そうだった。もう一つ。魚、だ。

僕の家には2匹の魚がいる。シーラカンスと、シーラカンス。どちらも同じ種類。2匹。一緒に暮らしているのだ。2メートル近いその魚たちと一緒に暮らすために、僕の家の壁には大きな水槽がある。その片方が今、僕に語り掛けていた。

「あ、ただいま」

「学校はどうだった?」

「うん、良かったよ」

「誰かと話せた?」

「うん、何人かは」

「そう、安心した。よかったね」

シーラカンスは二人とも、喋ることができない。でも僕と話すことはできる。空気を伝って分かるのだ。

問いかけているのは、僕の学校のことだった。今日から大学に通い始めることになった僕は、入学式と新入生をお祝いする会……だったか、そういった何かに途中まで参加して、たった今帰宅したところだった。

魚との会話は水と一緒に溶けて、それまでだった。冷蔵庫を開けてコップに麦茶を注ぐ。コップを持ったままキッチン前の席に座り、ぼうっと水槽を眺めていた。

本当は、誰ともあまり話していない。何人か、というのは入学式で席が隣だった人に「あの、すみません。学科のグループチャットって、入りましたか?」と聞かれたのに「あ、すみません。まだ……」と曖昧に返した。その一度きりだった。入るよう誘われたのかと思ったが、その後斜め後ろに座っていた人にも同じことを聞いていたから、きっと彼も入れていなかったのだろう。
ああいうのって、入っておいた方が良いのだろうか。
あの後の、まさに今開催されているであろう歓迎会で、きっとそういう群れがどんどん大きくなっているのだろうと思う。課題提出の締め切りのリマインドがどうとか、バイトの紹介が入るだとか、何だかんだ入っておくと便利だと、その必要性を先輩らしき人に言われたのだとか聞こえた気がするが、やはり断っていると何か不利益を被るのだろうか。
ああ、そんなことより「すみません」って、つい口癖のようになっているなあ。
高校の友達は、別の学校で今何をしているのだろう。

麦茶のコップの冷たさと、家の静けさにゆられて、ぼうっとしてしまう。考え事も続かない。それが心地よかった。人だらけの場所に行った後は、水の中がやっぱり好きだ。音がくぐもっていて丁度良い。途中で逃げるように帰ってきたのは、何もあの場所が嫌だったわけじゃない。新鮮で良かった。僕は学校にいる間中、入学式のどこか強張った新鮮な空気と、それを照らす陽だまりに圧倒されていた。そうして家の奥の静かで深い海に行きたくなった。ふわっとした頭で、やっとそれを思い出す。残りの麦茶を飲みほした。

コップをそっと置く。リビングの中でゆらっと立ち上がると、僕の足は自室に向かって歩く。深海200mの海につながる、あの仄暗い青色をした窓に向かって、水の中をゆっくりと歩いている。


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