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『彼』

『彼』

 
三日前、海岸に打ち上がったクジラの死体を見た。ぐったりと横たわり、砂に塗れた身体は、ガスを含んで大きく膨張している。

 
「皆さま、危険です。どうか近づかないように」

 
年老いた警備員らしき男が、カメラを抱えた人々の群れめがけてメガホン片手に呼びかける。膨張し切った彼の巨体が、いつ破裂するか分からないためだ。
 
動かぬ彼とそれをとりまくテレビ局の人たちを横目に、僕はそっと家に帰った。


あれから暫く後。

後日。夜。

僕は海に飛び込んだ。


 
音のくぐもる夜海。冷たい水。月の光。

静かな群青色の中を泳いでいると、涼しい温度が体中を駆け巡った。その感覚に、どこか太古の海の記憶が思い出される。そんな心地がする。

 
暫く泳いでいると、一匹のコバンザメに出会った。小さな彼は、更に小さな声で僕に言う。

 
「彼はどこ?」

 
その後ろにいたイワシの群れも、口々に言う。

「どこに行ったの?」「彼に、いつ会えるの?」

 
「彼」とは誰なのか。それは、どこにいるのか。 
誰かが聞かなくても、心の中では皆分かっていた。

 
僕らはもう、彼に会えない。
だって彼は死んでしまったのだから。もう海にはいないのだから。


陸地。

打ち上がった彼。骨が剥き出しになった彼。膨張した、彼だったもの。

 
力無い、砂まみれの姿を思い出し、目の前の魚たちを慰めることもできず、僕はただ、彼らの瞳を見つめることしかできなかった。

僕を見つめる、小さな瞳たち。彼の最期の姿を見た、ただ一つの存在である僕を、見つめていた。真っ直ぐに、ただ「彼」との交信を求めて。僕の方へと静かに光っていた。言葉は交わさず一つだけ瞬きをすると、彼らは「解った」と言った。動揺を見せる者はおらず、それでも瞳だけは一層光ったような気がした。海の中には、見えない涙がいくつも紛れているのだろう。


彼らに別れを告げ、僕はまた泳ぎ出す。海の底に向かってどんどん下へと潜っていく。


静かな夜海。一層冷たい水。少しだけ、月の光。


途中、大きなクジラに出会った。
美しく、彼と同じくらい大きなクジラで、とても落ち着いていて、少しだけ悲しそうな顔をしていた。

彼女のゆっくりとした泳ぎに、僕は目を奪われる。通った場所がコオッと音を立て、水流を作り、消えた。


その姿に、僕はまた大海原を揺蕩う彼を思い出しながら、ああ、クジラとは、こんなにも美しかったかと思った。


 
「クジラ」。



 
あんな巨体に命を乗せて、今日も何処かを目指している。同じ命として扱われるのが恐れ多いような気がしてしまう。海の主に相応しい、誰よりも雄大な姿。名誉も、食物連鎖の頂点も、そして信仰すらも求めない、本物の神聖さ。



ああ、それなのに。


あんなに穏やかに泳いでいた彼でさえ、ああなのか。陸に上がれば、ああなのか。


打ち上げられた彼は、ただの肉塊だった。


 
ずっと海で生きてきたのだから、最期に朽ちるのだって海の中だろう。僕が死んだら、バラバラに散って、いろんな魚達の糧となり、また海を泳ぐのだろう。彼だって、そう思って生きていたはずだ。陸は僕ら肉人形と獣たちの生きる世界で、この神聖な生き物達の浮かぶ海とは別世界だ。陸を卑下したいのではない。ただ、彼の場所ではなかった。彼にはどうか最期まで、触れてほしくなかった。僕のエゴだ。分かってる。でも本当に、どうか、


知らないで、ほしかった。


もうこの世の物でない宝物が、故郷でない場所で喪に服す、最期の神聖な時間。そこへ卑しくも賢さを売りに群がる人間たち。ご冥福をお祈りするのもそこそこに、研究、試食、展示。さあ、何に「使おう」か。もう後に戻れない僕らの罪。無自覚の罪。原罪。知らないでほしかった。一緒にならないでほしかった。彼の静かな気持ちも知らない同族は、大きな収穫にさぞ喜んだことだろう。そんな僕らの品性下劣に、彼のもう動かない心臓と脳みそは何を思っているのだろう。


 
海の中、魚たち。


静かなかつての海の主が、今やガスを含んだ時限爆弾になっているなんて。誰が想像できたことか。コバンザメたちに出会った時、本当は僕だって泣き出してしまいそうで、彼の哀れな姿を見たことを共有しようか、僕一人だけが抱える、悲惨なほどに輪郭をもちはっきりとした「死」の形を、具体的になってしまった悲しみを、まだ幼い子どもたちに分かち合ってしまおうか、何度も悩んだ。
 
陸での彼を見たのは僕だけだ。海の小さな生き物たちの中で、彼に起こった現象とは、ただの存在の消失。自然の摂理でしかない。波に揺蕩う、血肉を洗われた綺麗な亡骸しか見たことのない彼らにとって、死とはさぞ美しいものだろう。だからそれを壊すのが、小魚たちの思い描く世界に現実を突きつけてしまうのが、それこそ何よりも怖かった。それに、静かで青い海を前に、そんな気持ちさえふわりと薄れたのだ。素直とは、正直さや現実の告白だけではない。君に隠し事があったって、僕らは構わない。

そんな彼らを見ていると、呼吸が楽になった。

 
「彼はどこ?」


コバンザメは言った。その疑問に僕は閉口してしまったけれど、そうすることで彼のいた海の名残を噛み締めていた。小魚たちが解ったと言ったのも、きっと同じこと。彼らだって、本当に彼の居場所を聞きたかったのではない。あの時間、あの瞬間。僕らは確かに、海を通して一つになった。もちろん、「彼」も。



音の無い夜海。冷たい水。

 
海の中、深い場所。

そっと岩陰に降り立ち、僕はポケットから、彼の骨の欠片を取り出した。
三日前。それよりも前。カメラを抱えた人々が来る前に、こっそり預かった彼の一部。月の光もとうに届かなくなっていた暗闇の中で、そっと手放した。
彼の、細く小さな骨はゆらゆらと揺れ、見えない場所まで消えていった。
 
彼を追うようにしながら、僕は水面に向かってまた泳ぎ始める。これまでに何度も繰り返してきた、彼と一緒に泳ぐ時間。その最後。僕らは海を通して一つだった。

彼が死んでしまったのは問題ではない。自然の摂理に背きたいのではない。僕のエゴだ。分かってる。でも本当に、どうか、



ただ一つだけ。

僕は、


大好きだった彼のお墓が、群青色の海であってほしかった。


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