見出し画像

先生のばか

「先生のばか」

誰もいない空っぽの教室の中、長いこと何も考えられずに頬杖をついていた。放課後の湿った夏風に当たりながら「何もしない」をすることが、今のあたしには丁度いい。

風が柔らかくて、焦点の合わない目に射し込む西日がやけに綺麗で、ふとした瞬間涙が零れそうになる。

机に投げ出された腕の先、手のひらに置いた小さなガラス玉。腕を傾けると、軽く握った手の中でほんの少しだけ転がった。微かに残る冷たさが肌に染み渡る。

今のあたしって、こんな小さな欠片しか残されていないんだ。楽しかったはずの夏のまとめがこれなんて、あまりにも小さい。

一番楽しかった夏。
終わって欲しくなかった夏。

涼しいのか温ったいのか分からない風に吹かれながら、あたしはそっと目を閉じた。



――今から五年前。小学四年生だったあたしは、柚ヶ村という村に越してきた。

住む人の少ない柚ヶ村は、日本の原風景を模したような辺鄙な田舎町だ。おばあちゃんの住む村なので、馴染みはあった。でもどうしても退屈だった。珍しい遊び場として捉えていた場所だって、住む処となるとまた見え方が変わってくる。以前住んでいた住宅地とは打って変わって、人もいない。お店もない。

「お父さんの、お仕事の都合なの、ごめんね」

お母さんからはそれだけを言われて、いつの間にかいろんな乗り物に揺られていて、気が付いたらここにいた。

来るときに乗ったオンボロ電車の窓からは、田んぼばっかりが見えた。車窓から緑色の風が吹き込んでは流れていく。どんどん緑になる景色を見ながら、ただ「田んぼだなあ」「田んぼだなあ」と思った。それ以外、思う事なんて何にも無かった。だって本当に、何も無さそうだったから。

あたしは小さい頃から引っ込み思案で、友達と呼んでもいい人がいるのかよく分からない。柚ヶ村への引っ越しが決まったのは、そんなあたしにとうとう「お友達になろう!」と話しかけてくれる子がいて、やっと一人じゃなくなったところの出来事だった。やっと出会えたのに、またやり直し。やるせなさの中で訪れた辺鄙な村に対して、子ども心に不安があったのだと思う。村に着いてから暫く新しい環境に馴染めなくて、長いことうっすらと体調が悪かった。

「その辺で風に当たれば良くなるでしょう。お外へ遊びに行ってらっしゃい」


毎日家から持ってきた本を読んでばかりいるあたしを見ながら、お母さんとおばあちゃんは口癖のように言っていた。一度だけしぶしぶ外に出たら、庭の茂みから真っ黒な蛇が出てきた。あわてて逃げると、今度は茶色い大きな虫が家の柱を這っている。もう嫌と思って、泣きながら自分の部屋に戻って来る、そんな毎日。お母さんとおばあちゃんからは「根性無し」だか何だか言われた気がするけれど、あまり覚えていない。根性なんて一度も欲しいと思った事が無かったから、心に響かなかったのだと思う。もう放っておいてほしかった。

第一、風に当たるだけで具合が良くなるのなら世話ない。そんな簡単なことじゃないんだ。どんなに緑が多くて空気が綺麗でも、そんなの知らない。知らない人だらけ。知らない村。知らない虫。全部全部こわいのにな。それでも周りからは「お外で遊んでいらっしゃい」の毎日だった。大人の正解は、いつも「お外」だった。

結局あたしは、どんなに嫌でも毎日外に出ることにした。嫌で仕方が無かったけれど、それでも心のどこかでは、子どもながら、それが親たちなりの気遣いだと感じたからだ。お外のこと以外、あたしはお母さんのこともおばあちゃんのことも大好きだった。だから外に出た。二人の気遣いに気を遣っていた。


嫌な事でも続けていれば慣れるもので、やがておばあちゃんの育てる田んぼに一人で入って、イモリやタガメをとって遊ぶのが毎日の楽しみとなった。灰色や茶色の気色の悪い生き物ばかりであろう泥中が最初は嫌で仕方なかったけれど、ある日、何故かあたしは、水の中の生き物なら多少悍ましくても平気だという事に気が付いた。蛇は怖いのに鰻は平気で掴んで食べられる。それに近い感覚だと思う。ともかく、結局、「お外」には慣れた。

慣れるとお外は楽しかった。特に、なかなか現れないタガメは宝物のように映り、いつもあたしを夢中にしてやまなかった。見た目のくせに逃げ足が速く、捕まえるのも難しい。


――いつものようにタガメ狩りに夢中になっていたあたしは、ある日とうとう「マツさん」というご近所さんの田んぼに踏み込んでしまった。セミが沢山鳴いていて、背中まで汗びっしょりで、膝も手首も泥んこになりながら夢中で下を向いて歩き続けていた。そしたら全然気が付かなくて、ふと顔を上げた時にはもう、見知らぬあぜ道の脇だった。


「なっちゃん、他所の田んぼに入ってはいけませんよ。特にマツさんの田んぼ、ね。マツさん、怒りっぽいんだから」


おばあちゃんの言葉を思い出して、慌てて足を引き上げた。



――その時だった。

なんでもない田んぼの隅っこが、

青く、キラリと光った。



――何かある。


タガメなんてそっちのけで、田んぼの端めがけて進んでいく。反射光に向かって泥の中を進んで行く。何かある。絶対にある。見失わないように気を付けながら、泥に足をとられないように、恐る恐る、それでもなるべく早足に進んだ。


あった。


水面に少し顔を出していたのを、そうっと拾い上げて泥をぬぐう。太陽を返して、それはまたキラリと光る。



――小さなガラスの玉だった。


綺麗な模様の入った、青くて、小さなガラスの玉。美しい波模様の入った海色のガラスを見るなり、あたしは何かとんでもないものを見つけてしまったような気がして、ぞくっとした。

「(宝物だ!!)」

そう思い、また泥を拭ったその時だった。



「あっ!もしかして、君」



――遠くから、聞き慣れない声がした。びっくりして声のする方を振りかえると、見慣れない目がこっちを見ている。若い男の人だった。同じ声が、またあたしに向かって言う。

「手に持ってる!それってさあ!青いビーズ?」

ずいぶんと大きくて、呑気な声だった。見下ろすと、あぜ道の段差の下で、男の人は真っ直ぐにこっちを見上げている。突然の出来事にどぎまぎしつつ、素直でいい子だったあたしは気が付けば頷いていた。同時に「しまった」と思った。

それは俺のだ。返せ、なんて叱られたらーー


「ひゃー、危ねえー!よかったー、見つかって」


あたしの心配をよそに、返ってきたのはまた呑気な返事だった。声が大きい。彼がこっちに来る。


元気な人……。


直感的にそう思った。威勢が良すぎる。でもそんなことより……ああ、よかった。怒られなくて済んだ。ほっと胸をなでおろす。一方で「あの綺麗なガラス……。持ち主がいたんだ」という残念な気持ちも浮かぶ。

空っぽの野菜カゴを抱えた彼は、バチャバチャと音を立てながら容赦なく田んぼに入り、ずんずんこちらに向かってきた。

「いやー、まじでよかったー!そのとんぼ玉さ、もう無くしたかと思ったんだ!」

……とんぼだま。

とんぼ。

トンボ……?

??

彼の呑気な言葉があたしの脳裏に浮かばせたのは、羽が4つで大きな目をしたあの虫だけだった。このガラス玉のどこがトンボなの?きょとんとしたまま何も答えられなかった。そんなあたしの顔に気づいたのか、お兄さんは付け加えた。

「ああ、それね、『とんぼ玉』って言うんだよ!」

お兄さんはあたしの傍に来て、田んぼの隣のあぜ道に腰掛けた。

「ガラスの棒を溶かしてね、丸くしてね、模様を入れたやつ。とんぼ玉って言うんだよ。綺麗でしょ?」

とんぼ玉……。

「俺が作ったの」

「えっ!」

途端にきまりが悪くなって慌てて彼にそのガラス……とんぼ玉とやらを差し出した。まさかお兄さんの作ったものだったなんて。

「あー、ありがとうねー」

泥だらけのまま手渡してしまったけれど、お兄さんはあんまり気にしていないようだった。彼のあっけらかんな様子に少し緊張が取れてきて、ふと、とんぼ玉とやらがどうしても気になってきた。改めて、恐る恐る尋ねてみる。

「……お兄さんが、これ、作ったんですか?」

「ああ、そうだよ!すげーでしょ!!!あははは!」


すごい。こんなにきれいな物を作れるんだ。そう思った。するとお兄さんはとても素敵なことを言った。

「家に行けばもっと沢山あるよ、すぐそこの。見にくる?いい自由研究になるかもよー!」

沢山!!!?

何を聞いてもヘロヘロっとした軽い口調な彼は、変わらないテンションで言った。その言葉が、当時のあたしにとってどれほど魅力的なものであったかは計り知れない。とんぼ玉が、こんなに綺麗なとんぼ玉が見られる。しかも、たくさん!あたしは食いつくように返事をした。


「行きたい!」



――とんぼ玉のお兄さんの家は、確かにガラス玉だらけだった。

「おっしゃ!作るとこ、見してやるわ!」

そういうとお兄さんは、細い透明な棒を取り出して、バーナーの火をつけた。炎に炙られ赤く染まりゆくガラスに、あたしの目は釘付けだった。ガラス棒の先がとろんとした赤い木の実のようになって、細い棒に巻き付けられる。冷えると一瞬にして黒くなる。流れてくる空気が温かくて、ふわふわと柔らかかった。

「あったかいうちに形作るんだよ。そうしないと、固まって割れちゃうの」

説明しながら魔法のようにガラスをあやつるお兄さんが、格好良かった。ぼうっと呆気にとられて見ていると、お兄さんは「一個あげよーか」と独り言のように呟いた。

「そこに昔作ったやつ沢山あるからさ!どれか好きなやつ、あげる」

お兄さんが指さした先には、数えきれないほどのとんぼ玉達を浮かべた、灰入りの箱があった。埋もれる沢山のガラス玉。それを見た瞬間、あたしの中にさっきとんぼ玉を拾った瞬間と同じくらいの感動が注ぎ込んだ。ガラスの一つ一つが、果物みたいにぴかぴかと光っている。砂のベッドで大事にねむっている。葉っぱの描かれたもの、雪の結晶模様がついたもの……一つ残らず、全部が本当に綺麗だった。

まじまじと見つめていると、ふとあたしは初めて出会ったあのガラス玉が恋しくなった。そうだ、あれだ。あたしが一番欲しいのは……


「あの……さっきの、」

「ん?」

「さっき田んぼで拾った、あれ、あの、青いの」


「……あー!……」

「あれがいい!」

するとお兄さんは少しだけ困った顔をして、

「……あれはねー……ごめん!あげらんない」

と言った。

「……なんでー?」

「あれねー、マツばあばが作った見本だから……無くしたらやばかったんだ」



――マツばあば。

多分、マツおばさんのことだろう。知っている名前が浮かび、心臓が小さく跳ねる。あの畑の持ち主のこと。そうだ、あそこはマツおばさんの畑だった。おばあちゃんから噂に聞く、厳しい厳しいマツおばさん。

「見本欲しくて俺が持ってたんだけど、雑草取りした時に、ポッケから落ちたんだろうな。雑に扱いすぎたな、あははは!」

「……お兄さん、マツおばさん、知ってるんですか?」

「ああ、マツおばさん、俺のばあちゃんだよ!」

いきなりの新事実判明に、思わず目を丸くした。お兄さん、マツおばさんの家族だったの?こんなに優しい人なのに、あの、怒りっぽいマツさんの?信じられない。

「あはは!そんなびっくりしたかー?」

あたしは頷いた。

「だからごめん!あげられないんだ。その中から選んで!……ばあばが怖いの、知ってるだろ?」

ふふっとお兄さんが笑う。残念な気持ちがふっと消え去った。マツさんに叱られるのはおっかない。あたしは素直にお兄さんに従うことにした。

「うん、わかった!」

……これにしよう。この、オレンジ色で綺麗なの。蜜柑の色。柚ヶ村の綺麗な夕日の色。

「あの……」

……ふと、お兄さんの名前を知らないことに気がついた。

「あの……お兄さんの、お名前なんですか?」

「ん?あ、マコト!マコトって呼んで!」

「マコトお兄さん?」

「マコトでいいよ」

「マコト……。あたし、サキです!」


――


「サキちゃんって、もしかして三浦さん家の、さっちゃんって呼ばれてる子?」

「うん!そうだよ」

出会って間もないあたしたちは、一度に仲良くなった。あんまり楽しかったから、ついお母さんに今日のことを話すと、案の定ちょっとだけ怒られた。真面目で心配性であたし思いのお母さんは、あたしが見知らぬ男について行ったという事実だけを濾し取り受け止めた。「サキは本当に怖いもの知らずなんだから」「来週から小学校に通うんだから、年上の人よりも、同じくらいのお友達を探しなさい」とのことだった。子ども心に、なんだか納得いかないような感じがした。


――怒られた日の翌日、迷いはしたけれど、あたしは結局マコトの家に行った。他に行く当ても無かったし、何よりとんぼ玉を見ていたかった。マコトの家に着くと、気が付いた彼の方から手を振って来た。


「来たんかー!サキ!」


その日もマコトと一緒に遊んだ。昨日見られなかったトンボ玉も、またたくさん見せてもらった。いつもタガメを探していると言ったら、たくさんいる場所があると教えてくれて、少し遠い田んぼまで一緒に出掛けた。マコトは色んなことを教えてくれた。

「タガメなあ。タガメって、きれいな水ん所にしか居ないんだって、知ってる?」

「そうなの?」

「うん。だからな、タガメは、柚ヶ村が綺麗だって証拠だ!」

「へー!」

いつもは一人だったタガメとりも、マコトと一緒だと茶色くなくて、灰色でもなくて、違う遊びみたいにキラキラしていた。

遊び疲れて家に帰るともうお昼の時間で、一緒にそうめんを食べた。何時になってもこの家にはマコト以外いないらしい。風鈴の音と夏風に当たりながら食べるそうめんは本物の夏の味がした。横目に映るボサボサの畳には、相変わらずとんぼ玉の入った灰入りの箱が置いてある。

「(ずっとここにいたいな)」

心から、そう思った。


その日の帰り、ふと、お母さんから怒られたことを思い出し、何となく敬語になりながらも聞いてみた。

「あの……マコトお兄さん、また来てもいいですか?」

マコトは笑って、

「あはは!なんだよー、急に改まって」

変な奴ー、と笑っていた。恥ずかしくなったけれど、誰かからそんな風に蹴とばしたような言葉をもらうのが初めてで、何だかソワソワするような気持ちがした。

「いいよ!いつでも来な」

マコトはカラカラと笑いながら言った。太陽みたいな笑顔だった。本当にまぶしかった。マコトについお兄さんを付けてしまうのも、敬語を使うのもそこできっぱりとやめられた。この人なら大丈夫だと思えた。


――あたしは毎日、たくさんのとんぼ玉達に会いに行くために、マコトの家へと足繁く通うことにした。マコトと話している時は寂しくもないし、家では言えないようなことも言えたりして、心も身体もどんどん元気になった。最近、毎日がすごく楽しい。それを伝えたら、「俺の元気パワーがうつったな!!流石俺だわ、あははは!」と言っていた。謙遜のかけらもない。なんだかますます嬉しくなった。

毎日毎日、けらけらと笑いながらくだらない話をした。マツおばさんの売る駄菓子屋でお菓子を買った。時々、賞味期限が切れそうなものをマコトがかっぱらってきて、「タダだぞー!」と悪そうな顔を並べて食べたりもした。最初は「良いのかな」なんて言っていたけれど、マコトがあんまりにも手慣れたようにやるものだから、それも無くなった。相変わらずタガメをとった。毎日泥だらけになった。「お外」が大好きになった。

どんな時でもマコトは面白くて、明るくて、一緒にいるだけで元気が出た。明るくないあたしにこんなに明るく接してくれる人は、マコトが初めてだった。


――それから二年。


あたしは柚ヶ村の小さな小学校を卒業して、中学に通うために隣の町に引っ越すことになった。引っ越しとはいっても四年生の時のような嫌さは無い。同じ小学校の友達は皆その中学に通うことになっていたし、村には引っ越してからも電車一本で帰ることが出来るくらいの距離だったから、あまり寂しくは無いだろうと思っていた。


「あんま会えなくなるなー、サキ」

「えー、電車ですぐ帰れるから大丈夫じゃない?」

「いやー面倒になるってもんでしょ?そういうの」

「そうかなー」

「俺がいないと寂しくて泣くんじゃねーのー?」

引っ越しが決まってから立つ日まで、マコトは色々と小突き回してきた。むかっときてあたしも反撃する。

「何言ってんの。てか、普通に友達出来たし」

「ほー!サキちゃんからお友達なんて言葉が聞けるようになるなんてねえ」

「うっさ!」

「あははは!」

他にも色々煩いことを言われたけれど、何を言ってもこれまでと殆ど変わらず会えるだろうと思っていた。だから、茶化す合間にマコトが少し寂しそうな顔をするのも、正直よく分からなかった。

実際引っ越してみると分かったのだが、全部、マコトの言う通りだった。慣れない環境に馴染むためにはまた体力が必要で、電車一本の距離が何となく面倒くさくて、あたしは柚ヶ村にあまり帰らなかった。マコトに会いに行く回数も徐々に減った。結局、中学に入学した年は夏に何度か遊びに行ったきり、マコトとはほとんど会わなかった。そのまま一年間は静かに過ぎていった。


――中学二年生の春、

驚くべきことが起きた。なんとマコトが新任教員としてあたしの中学校に入ってきたのだ。立場はクラスの副担任。マコトが教育を勉強している大学生だったことはこれまでの話の中で知っていたけれど、実際に先生という立場を全うしようとする姿を見るのはこの日が初めてだった。

「……こんにちは!新任の、夏目です。

今日から君たちの副担任になりました。

担当科目は数学と美術、です

が、

えー、

他の授業も時々担当します、

多分。

……はい、よろしく、お願いします!」


赴任初日、スーツを着てギクシャクした彼と目が合うたびに、あたしは何だかおかしくて、笑いをこらえるのに必死だった。なに、多分って。すっごく緊張してる。先生なのに。

変なの!


「隣町にまでついてこないでくださいよー、夏目せんせえ」

「あはは、うっせーなあ、だまれや!」

早速廊下で茶化してやった。引っ越し当日にやられたやつのお返しだ。それだけに終わらず、休み時間にもまた、すぐさまあたしは職員室へ駆け込んだ。マコト、いや、「ナツメセンセイ」に会いに行くために。

「失礼します……夏目、先生、いらっしゃいますかー?」

「はーい、います!」

おかしかった。ついこの間まで田舎の兄妹のような関係だったというのに。


タガメに噛まれてたくせに。

泥に落っこちてたくせに。

賞味期限切れの駄菓子、かっぱらってたくせに。

真面目だけど、変なところでイタズラするあいつ。

いつも笑ってるだけのあいつ。

敬語なんて使って。

ふふ、変なの。

「今日の宿題のプリント、届けに来ました」

「うん、ありがとうね」

何でもないやり取りなのに、本当におかしい。おかしくて仕方がない。偶然再会して、教員紹介で「夏目真琴」という彼の本名を聞かされてからも、あたしの中ではどうしても、あいつは「マコト」のままなのだった。

――本当は、あたしは嬉しかった。だって、ずっと会えていなかった。職員室帰りに止まらない笑いをこらえながら、「ああ、何こんなに喜んでるんだろう」と心の底から恥ずかしくなる。言葉にできなかっただけで、いろんなことを考えていた。


「(……マコト!久しぶり。元気だった?)」

「(何だかんだで、ずっと会えなかったね)」

「(それよりさあ、聞いてよ!)」

「(……あたしね、柚小の友達、だれもクラス一緒になれなくてさ)」

「(ひどいよねー、担任)」

「(一人くらい、一緒にしてよって感じ)」

「(一年間、ね。あたしまた、馴染めなかったんだよ)」

「(学校同じだった子はもう新しい友達作ってさ!)」

「(ズルいよね。ね、本当に)」

「(……また、一人だったよ、ずっと)」

「(ねえ、)」

「(マコトが来たんなら、あたし、もう大丈夫かな)」


教室に帰る廊下を歩きながら、もう小学生じゃない頭の中で、ずっと小学生みたいな文句を叫んでいた。気持ちのままに並べた言葉、ちょっと前までなら、そのまんま声にしてぶつけていただろう。

この日、あたしはマコトに何も言えなかった。こんなにも嬉しいのに、何も出てこない。

思っていた言葉。感じていた気持ち。ずっと聞いてほしかった文句。全部全部子どもみたいな感情ばっかりだ。

マコトは餓鬼みたいな大人だから、何でも言える。そう思っていたのに、いざ一年ぶりに顔を合わせて気が付いた。もうこんな言葉、面と向かってなんて、絶対言えなくなっていた。

「反抗期」

そんな言葉で括って良いものなのかは分からない。本当は、また毎日会えるようになったのが嬉しかった。マコトに会えた。やっと一人じゃなくなった。なのに、話したかったことはひとつも話せなかった。

柚ヶ村での毎日が一人じゃない時間を教えてくれた。そのせいで、気が付けば一人が苦手になっていた。職員室から校長と話すマコトの声が聞こえる。夕日に照らされた誰もいない廊下で、あたしは少しだけ、泣いた。



――マコトの授業は面白かった。面白いと言っても高度な学びが得られただとか、そんな賢いことではない。先生っぽく無いラフさが唯一無二で他の先生と少しズレていた。自習の時間中も、マコトは色々煩かった。

「この問題難しいよな、こんなん解けて何になるんだって思うよー、俺も」

「うーわ、電流回路だ、なっちい――!」

「あれぁー、面倒なやつだこれ。本当は三角関数使えば一発なのによー、習ってねえんだもんね」

今日もマコトは何やら意味の分からないことをぶつくさ垂れている。生徒目線での文句を言いながら進む彼の授業は、反抗期真っ盛りだったあたしには大のお気に入りになった。マコトの言ったことが初耳の単語でも、むしろそれが何だか大人びて聞こえて、他の先生のなめてくる感じがしない。元気で同級生みたいに話せるマコトの雰囲気は、他の生徒からも人気みたいだった。そんなマコトを見ていると時々変な嫉妬心みたいなものが生まれて、しょっちゅう話しかけに行った。

「ねえー、夏目せんせえ」

「はーい、なんですか、三浦さんー」

「うひひ、三浦ーーだって。変な奴ー」

「はー?お前だろ!」

マコトを先生と呼ぶことも、誰かが見ている時だけ自分がサキと呼ばれないことも、はじめはおかしくて仕方がなかった。少し前までは、マコトとサキだったのに。子馬鹿にできる教師がいるのって楽しい。もちろん、愛嬌の範囲だけど。

「ねえ、まじで授業進むの速い。ぜんぜん分かんないよ」

「えー?分かんないんだよ、中学生の頃の記憶なんて遠い彼方なんだから。生徒の気持ちなんか分かるかっつーの!」

「それ先生が言う?」

「あははは!」

違和感のある毎日も続けていれば慣れるもので、また楽しい毎日が戻って来た。あたしとマコトのくだらない毎日。前ほど素直には話せないけれど、馬鹿にし合えるだけで楽しかった。ともかく、結局、「先生と生徒」には慣れた。そう思っていた。それでよかったのに。


それなのに。


それなのに、


――


あの校長が。


「夏目先生、ちょっとお話しが……」

「はい!何でしょうか?」


あいつのせいで。


「とある生徒さんの保護者様からですね、三浦さんとの関係について度が過ぎているという話がありました」

「……」

「お心当たりは」


先生と生徒。慣れたつもりだったけれど、あたしたちは元々友達だった。だから、新しく出来た関係が邪魔だったのかもしれない。

マコトとあたしは休み時間にも楽しく喋っていて、それを気に食わなかった誰かが担任に告げ口をしたらしい。それがきっかけで些細な注意喚起がマコトに何度かあったらしい。やがて職員室内でも尾ひれがついて変な噂になりかけて、それは次第に本気の注意に変わっていった。

――良い迷惑だ。校長は責任を取りたがらないお堅いやつの典型で、こういう贔屓がどうのと聞くだけで胃が痛くなるタイプの人間らしかった。



あたしは今までに沢山の大人に気を遣ってきた。盗み聞いたわけでは無くても、こういう嫌な噂の存在は、言われなくても分かる。第一、小学校以上の規模はあるけれど、所詮しょぼっちい田舎の学校。話せば全て筒抜けなんだから。マコトは職員室内で孤立していった。それでも毎日笑っていた。

マコトは今日もまた注意を受けている。黒板への落書き。相合傘。あたしとマコトの名前。くだらない。マコトのことを気に入っている女子生徒の、あたしを見てくる怪訝な目。元々友達の少ない人間なんだ。雑ないじめの標的になるのは割と自然な流れかもしれない。

ある日、あたしが数学の問題を聞きに行ったその後のこと。

「サキちゃんと先生、また話しとるわ。お似合いやねえ!」

マコトに質問をしに行ったら、それを見ている女子生徒から嫌に明るい声が飛ばされた。マコトはへろっとしているけれど、ノートは早々と閉じられた。これじゃまともに話せないよ。

職員室に戻るマコト。ジロジロ見る教頭。何か話すとすぐ注意をうけていたマコトの姿はもう職員室内では名物になっているようだった。


――何が校長だ。

やっちまえマコト。言い返してやれ。
今日も職員室で校長のお叱りを受けるマコトに、遠くから目線を送った。それなのにあいつの口から出た言葉は、なんとも情けなかった。



「……すみません。以後気をつけます」



――はぁ?

なんだよ、らしくもない。それじゃ本当にマコトが悪者みたいじゃん。



 「ねえさ、何であんな人の相手すんの?元々友達って言えばいいじゃん」

「いや、それは無理だって流石に」


帰り道、一緒に自転車を引きながら並んで話していた。こういうのがダメなんだろ、とお互い笑いながらも、結局二人で帰ることが多かった。だって家の方面一緒だし。元々友達だし。

でもやがて、マコトはあたしと帰るのを拒むようになった。色々と文句を言っても、「仕方ないだろ」しか言わなくなって、何を聞いても返事も「まあ……」とか、そんな覇気のない返事しか言わなくなった。ヘラヘラしてるのに案外真面目なんだね、そういうところ。だから教員免許なんて持ってたんだ。

次第にマコトは、あたしと上手く話せなくなっていった。あたしもあいつがこれ以上叱られるのが見たくなくて、話しかけるのをやめた。


「夏目先生」と呼ぶようになった。

呼ばれ方は、いつも「三浦」になった。

二人だけでいるときも。

「マコトとサキ」だったあたしたちは、いつしか夏目先生と三浦咲になった。


それから一年。


――中学三年の夏のことだった。

「ねーサキ、夏目先生のこと聞いた?」

「え?何?」


キーンコーンカーンコーン


「はい着席ー」

その日もマコトは、のらりくらりとした調子で教室に入ってきた。

「えー、皆さんにお知らせがあります」

「急な話なんですが、僕、夏目先生は

この夏から東京へ出ることになりました!」



――



「なので、みんなと勉強できるのは残りわずかです」


「僕との残り少ない毎日を、大切に過ごしましょう!あははは!」


教室中を、いろんな声が飛び交った。


「えー?」

「急すぎない?今夏じゃん」


そして最後のマコトらしい冗談には、どっと笑いが起きた。それを見て、またマコトは笑う。



一言一言が、ゆっくり ゆっくりとあたしの心に冷え込んできた。

頭が真っ白になる。



東京?

マコトが……東京に?

ど田舎もんのマコトが?


へえ。

……

ふふ、笑っちゃうよ。

マコトと東京。

不釣り合いにもほどがある。

なんて言ってる場合じゃない。


嘘でしょ?

未だにズルズルと反抗期の捻くれを拗らせていたあたしは、必死に冷静を保っていたが、頭の中は何も考えられなかった。
その日の授業が終わると、一目散にマコトの机に向かった。

マコトが居た。奥にいる校長の目を気遣ってか、猫背になりながら、表やらグラフやらの詰まったパソコンをぼうっと見つめている。


――どうせ何にも読んでないくせに。何だよ。授業準備なんていつも適当でしょ。指導案はネットからパクッてるとか訳わかんないこと前言ってたじゃん。真面目だけど、手抜けるところは器用に抜いてるんだって言ってたじゃん。

ぐるぐると考えながら、マコトの机に向かう。あたしが歩み寄ると、すぐさま、

「お!三浦だ。どした?」と顔を上げた。

相変わらずの笑顔だった。でもそれは、いろんな生徒に向ける「先生」の笑顔。ヨーグルトの上澄みたいな笑顔。あたしがこいつにサキと呼ばれることは、もう無くなっていた。

「どうしたんだ、三浦」

もう慣れた。

だからそれはもう、いいんだけど。

必死に走ってここまで来たというのに、あいつの先生らしい顔をいざ前にすると口ごもってしまった。

どうしよう、

どうしよう。

何て言えばいいのか、分からない。


「……あのさー」

「おう」


無関心を装いながら尋ねる。



「……あのさー、

マコ、



――校長がいた。


……夏目先生、」


「おう」

「……」

「……」


「……東京行くの?」



「えー……?」


夏目先生は、困ったように、少しだけ笑って、あたしから目を逸らして、言った。

「うん、行くよ」

「なんで?」

半ば苛々しながら聞き返す。ほんの少しだけ、声が震えていたかもしれない。パソコンを見るふりをしているマコトは、そんなあたしに気付いたのか気づかないのか、また少しだけあたしの目を見て、

少し顔を暗くして、小さな声で、

「転任」

とだけ呟いた。


転任。

……

いや、あの


そんなのわかってるよ。


腰砕けになりそう。そうじゃないよ、夏目先生。なんで転任するのかって聞いてんだよ。ねえ、

「転任って、なんで?」

マコトはちらっと校長の方に目をやり、見ていないのを確認すると、目の前のあたしに小さくて招きした。つられて耳をよせる。


小さく、言った。



「……母さんが、病気なの」



……


心の中を、熱いような冷たいような何かが貫いた。あたしは何も返せなかった。母親の話なんて、夏目先生の口から一度も聞いたこともなかったから。耳打ちのまま、マコトは続ける。


「(母さんの病気悪くなっちゃってね、東京出ないと、無理になったの)」

「(え?)」

「(ここじゃ無理になったの、本当にヤバいの)」

「(無理って何?何が?)」

「(色々あんだって)」

「(何?本当に何?病気って本当?)」

「(なんで疑うんだよ)」

「(だって……初めて聞いたしそんなの、それに、)」

「(え?)」

「(いや……ふふっ、とうとうクビ?左遷?)」

「(違うって、本当だって。……てか左遷って島流しだからな。日本史でやっただろ。都に左遷って矛盾してんだよバカ)」

「(いや今そんなん良いから)」


コソコソを繰り返していると、教室の奥から教頭の、わざとらしいため息が聞こえた。その吐息にイラっとしながら目を向けると、校長と教頭が三日月のように細めた目をそらした。気色悪い。ばれてんだよ。

消えろと思いながら二人を睨みつけると、彼らは重たそうな身体で立ち上がり、そのまま席を外した。

完全に出ていったのを境に、先生は体を起こして、普通の声で言った。



「……俺も忙しくなるのよ、とにかく」

「何で?」

「だから母さんが、」

「そんなの……初めて聞いた」

「話す機会も無いだろ、こんなの」

「……」

「……これ以上迷惑かけるわけにはいかないんだ。俺、母さんに色々してもらったことありすぎて。そろそろ家族にも怒られるから」


何も理解できなくて、何も返せないあたしを気にせず、マコトはぺらぺらと続けた。

本当に、何の話してるの?

ねえ、教えてよ。


……あたしのせいでは無いの?

あたし、心配してたんだよ、あたしのせいじゃないかって。あたしとばっか喋るからって。全部あいつらの、校長たちの勘違いだけど。それでも、あたしのせいでクビにさせられたから、転任なんじゃないかって。

違うの?

そうでは無いの?

でも、じゃあ、なんで?

喉の奥がどんどん冷えていった。

本当にさ、

急に何?

お母さんの話なんて、

そんな話、知らないよ。

ぐるぐるしたまんま何一つ分からなかったけれど、あたしは少し口を開いて何か言おうとした。それで、


「ごめんな」


……何も言えないまま、ぎゅっと閉じた。

そうしないとどうにかなってしまいそうだった。何も、何も言えなかった。

あたしって本当に、大切な時に何にも言えない。ちゃんと教えてほしいのに、そう素直に伝えれば良いだけなのに。心と頭に穴が開いて、もう何も出てこない。ただ一つだけ分かった事は、マコトが東京に行く。もう会えなくなる。それが変わらない事実ということだった。

「……」

「……」


――あたし達の間にこんなに酷い空気が流れていたのは初めてだった。いくら時間がたっても、どうしたら良いのか分かりそうもなかった。沈黙に耐えかねたのか、とうとうマコトが口を開く。


「……なあ。放課後、マツばあばのとこ行こうぜ」

マツばあば。マツばあば。マツおばさん。怖くて、駄菓子屋で、とんぼ玉のマツおばさん。

「……うわ、なつかし」

とっさに平然を装って、返してみた。ちゃんと言えたかな。もう何も頭に入ってこないんだってば。気づいてよ。

「んじゃ、後で倉庫室の前な」

「……うん」

「夏目先生!」

職員室の扉の方から、クラスメイトの声がした。

「あれー、またサキちゃんと一緒!」

「……あはは、なんか質問かー?」

「数学ですー!」

「先生授業速すぎるって。ついていけませんよー」

「あはは!まじかよー」

あたしは逃げるように職員室を後にした。


授業、一気に色々教えすぎなんだよ。ばか。



――マツおばさんの駄菓子屋に行くのは半年ぶりくらいだった。中一の夏に帰ったときにマコトと一緒に行って、それきり。いつまでたっても怖くて近づきがたい存在だったけれど、駄菓子屋さんを営んでいるのがそこしか無いから、ビクビクと何度も訪れていた。

「お釣りを受け取る手は両手!」

「ご挨拶!」

駄菓子を買いに来ただけだったのに、毎日大声で礼儀を叩きこまれた。怖かった。あれはあれでマツおばさんの優しさだったのかな。今ならそう思うけれど、小学生にそんなの分かんないよ。

柚ヶ村までの電車の中。並んであぜ道を歩く時間。ここに来るまで、あたし達は一言も喋らなかった。

二人で駄菓子屋の暖簾をくぐる。マツおばさんは居なかった。

「……いないね」

「うん。いねえな」

「……お店、開けっぱなしでいいのかな」

「いいんじゃん。金は勘定棚に入れときゃいいよ」

マコトの言葉に、あたしはつい懐かしい言葉で悪ぶってみたくなった。

「……バレないんじゃない?賞味期限切れのなら」

「あはは、かっぱらいか?なつかしいな~」

そう返事したマコトの顔は、ほとんど笑っていなかった。何だか懐かしいような、少し寂しいような色になった。

「かっぱらい、か」

らしくもなく静かに微笑んで、ポツリと言う。

「……サキ、もっと良い子だったのにな〜」


……いや、あんたが教えたことでしょ。あたしかっぱらいなんてしないよ、マコトといる時以外。そう思ったけれど、何故か声にする気にはなれなかった。サキ、か。久々に呼ばれたな。

「……いいじゃん、べつに」

それだけ返して、真面目なあたしは少し極まりが悪くなって、100円玉を古びた棚に押し込んだ。


――もっと良い子だった。


そんなこと微塵も思ってもなさそうで、何かを隠すための出まかせにしか見えなかった。やけに寂しそうな顔に、何だかもやもやとした。ちょっとだけむかっときた。良い子なんて言葉くそくらえって言ってたじゃん。

二人で田んぼの隣のあぜ道に腰かけて、安っぽいゼリーの蓋を開けた。夕日に照らされながら、二人並んでしばらく無言で目の前の坂道を見ていた。吹いてくる風から田んぼの香りがする。

マコトがため息をついた。らしくないんだよさっきから、本当にどうしたの。


――



「……なあ、なんで俺が東京行くと思う?」


突然マコトが口を開いた。

「……お母さんが病気、でしょ?さっき言ってたじゃん」

「うん、そうなんだけどさ、

……なんで今なのか、って話」

なんで今なのか。なんでマコトは、今東京に行くのか。たった今、お母さんが病気になったから、その看病に、ってことだと思っていた。違うのかな。じゃあ、

「……お母さん、結構前から病気だったの?」


「……うん」

「いつ?」

恐る恐る、あたしは聞いた。目を伏せてゼリーをつつきながら、マコトは小さい声で返事をする。

「……五年前。お前が柚ヶ村来た年」

「え?そんな前から?」

「まあ、ここまで酷くなったのは最近だけど」

「……そうなんだ」

「……うん、あと、」

まだ、ゼリーをつついていた。崩してるだけじゃん。手が暇なんだね。全然食べてないじゃん。

「……あと、俺のせいかもしれないって、ちょっとだけ、思ってた」

「どういうこと?」




「俺、仕事しないし、精神こじらせて田舎に移り住むし」

「え?」

「俺さー、」

「お前が柚ヶ村来た時な、だれも知り合いいなかったんだ!」

……え?


「お前とほぼ同時期だよ、ここ来たの」


嘘。嘘だ。あんなに泥だらけで柚ヶ村にいた。完全に馴染んでた。東京なんかより、柚ヶ村の方がお似合いだよ。「全然都会人になんて見えない」

「おいおい、心の声漏れてんぞー」

マコトはけらけらと笑った。太陽みたいな笑顔だった。久しぶり。

「俺ね、東京よ、育ちは。生まれたのはこっちだけど」

「俺ね、大学の授業受けてて、辛くなっちゃってさ」

「それだけでは、まあ無いんだけどね、それが主な理由」

「俺ね、授業辛すぎて、倒れちゃってさ。で、休学してこっち来たの。ばあばの家泊めてもらうことになったの」

「まず都会の通勤ラッシュが無理だった。人混みやばくてうるさくて」

「それに教育ってさー、大変なんよ?子どもの病気とか自殺とか、習うのよ。色々考えてたら授業中とか、なんかね、涙出てくるようになっちゃって。ほら俺、人の気持ちとか考えるの得意だしさ、感受性豊かだから」

「……最後の最後で自慢?」

「そう、自慢」

「あはは、何それ……」

何それ。


「だから春にこっち来て。そんなんだから、母さんにも心配かけてたかなーって。それで病気、悪くなったんじゃないかって……」

「……」

「まあ……言っても仕方ないんだけどさ。で、その数ヶ月後にお前が来ただろ。三浦さんの、お父さんの転勤で」

「……うん」

「だから、お前が最初の友達だ。俺が一人じゃなくなったのは、おまえのおかげ」

……。

「あ!あと、ばあばもな!忘れたら怒られるわな!あはは!」

思い出したように付け加える。どこまでも空元気。よかったねギリギリ思い出せて。

「ま、そのばあばにも多分忘れられたけどな!」

「え?」

……今度は何?

「こないだ、東京行く前の最後の挨拶にと思って、ここ来たんだよ。そんで、あははは。お世話になりました、ありがとうございました、って言ったらさ、『あんた誰や~?』だってさ!あはは、ウケるよな」

……もう、頭がついていかないよ。

「あはは、マジで、もー、な」

「病気よ、それも」

「ばあば、歳だから。畑仕事中に転んだらしくてな、そんで寝たきりになったら、そのままボケちゃった。気遣いで怒りんぼだから、しゃあないね。ボケやすかったんよきっと」

「だからばあばもな、ちょっと前から入院してんの。この駄菓子屋、実は俺が店やってんの!」


だから盗み放題だぜ!今なら!

そう言うとマコトは、がはは、と笑った。そしてまた落ち着いて言う。

「二人分の入院費って、馬鹿にならんのよ。こんな田舎で貰えるお金じゃ全然足りないの。でもとにかく稼いで送れだって。笑っちゃうよな。まあ世話になったからやるけどさ」

……

「……ねえ、ボケたって……」


「なんかねー、人の名前とか、どんどん忘れて行っちゃうらしいよ」

「……」

なんか、もう。聞きたくない。あたしが聞きたい言葉じゃない。

「……先生、授業速いよ」

「あはは、夏目先生の授業は速いで有名だもんな」

自虐ね。だから、もう。聞きたくないの。そういうのも。

「お前にもなー色々教えてないことあったんよ~。隠し事いっぱいあって……ずっと嫌だったからさ。最後だから教えてやったわ」

最後、か。

風に当たるふりをしながら、疲れたあたしは何となく顔を背けた。先生、本当に、一気に色々教え過ぎだよ。

オレンジ色だった夕日はもう、綺麗な青色に変わり始めていた。


――


「東京行ったら何しようかなー」


引き続き色とりどりの変な駄菓子をかじりながら、マコトは呑気に呟いた。まるで苦しさなんて何もないみたい。さっきの話が嘘なんじゃないかと思えてくる。

いつもヘラヘラ笑ってばかりのところ。

思ったらすぐ言っちゃうところ。

子ども目線で授業ができるところ。

子ども目線でしか授業ができないところ。

太陽みたいな笑顔をマコトらしさだと思っていたのは、あたしの勝手な理想像だったのかもしれない。

あたし、マコトのこと、何も知らなかった。それにマコトは今日まで何も教えてくれなかったんだ。もうほとんど残っていない夕日の残りに当たりながら、あたしはゆっくりと自覚した。夕日と同じくらいの速さで、ずっとあたしの心にあった太陽がどんどん儚いものに見えてきて、少しずつ消えていく。

あたしの知っているマコトじゃないマコトに、あたしはもう何も言いたくなかった。どうにか話題を逸らそうと、必死に周りを見渡した。ふと、ぼやくマコトの傍に、しずくのような形のガラスが置いてあるのを見た。食いつくように尋ねる。

「あ、ねえ、なにこれ」

「え?あー!最近はこういうのも作ってるんだ。オランダの涙って言うんだよ」


「……オランダ?」


オランダ。


「なにその、お洒落なの」

「いいじゃんー。とんぼ玉の海外版だよ」

そう言いながらあたしに渡そうとした。瞬間、あたしの目の奥の、頭の奥の何かが熱くなる。


「お前にもあげるよ。明後日立つからさ、

最後のプレゼントに、」


「いらない」



「なんだよ。なに怒ってんだよ」

「いらない」

「何だよ〜、最後のプレゼントだって言ってんのによー」

「だから、そういうのまじで、邪魔だから」

「何だよー、やっぱ俺がいないと寂しいのかー?」


「ねえ!!!」

あたしは立ち上がって、今まで出したことが無いくらい大きな声で言った。


「ばかじゃないの」

あたしは、

「え?」

「なあ、なんで?なんでよ!」

あたしは泣いていた。子どもみたいに、泣いていた。

「なんでそんなに急にいろいろ変わるの」



「ねえ何でよ!!!」

「……」

マコトは座ったまま、黙ったままあたしを見ていた。構わずあたしはつづけた。


「そんなにいきなり変わらないでよ。先生とか、東京とか、明後日とか、最後とか、うるさいんだよ!」

「もう、全部やめてよ!!」

思っていたこと、全部が声になった。全部全部、本心だった。やっと言えた。


ねえ、マコト、

あたしね、

マコトとサキのままでいたかったよ。

マコト、

なんで先生になっちゃったの?

なんで東京に行っちゃうの?

さっきのかっぱらい、何で一緒に笑ってくれなくなったの?

お母さんのこと、マツおばさんのこと、

なんでそんなに黙ってたの?

なんでトンボ玉じゃなくなったの?

なんで分からないの?

ばか。ばか。マコトの


「先生の、」


……なんであたしは、


「ばか!!!!」


こいつのこと

先生なんて呼ぶようになっちゃったんだろう。




……違う。

違うの。

気づいたら、先生って言っていた。

間違えた。ごめん。だって最近そうするしか無かったから。だってマコトはずっと、あたしの先生だったから。

「……へへっ」

へらっとした笑いだった。マコトの後ろから久しぶりに懐かしい風が吹いた気がした。

「……お前もじゃん!」

マコトはあたしを見上げる。懐かしい笑顔のまんま、マコトは――


「おれ、お前の先生じゃねえんだけどなー!!!」


初めて会った時のあの笑顔のまま、


「……先生なんて呼ぶんじゃねえよ!!あははは!こんな奴のどこが先生だ?」

「どこが先生だ!な?お喋りしかしてねえし、自習中は生徒の妨害だらけだぞ!」

「指導案もまともに作れないし!」

「習ってない公式急に使い出すし!」

「生徒の進度も把握してない!」

「それで何だ?」

「大人からいじめられて?」

「生徒から噂されて?」

「お前にも迷惑かけて??」

「母さんの病気悪化しないと働き始めない奴で?」

「自分の心も保てない奴だぞ!」

「ただ笑ってるだけだぞ?こんな奴先生なれるなんて、人材不足も良いとこだな!」

「せめて副担任で良かったわ。担任なんかもったら学校崩壊ってレベルじゃねえよな!あはは!」

「……」

「だから!」

マコトは、笑って、


「だから先生なんて呼ぶな!!」


――泣いていた。


「サキ!」

「二度と先生なんて呼ぶな!!!」



良い子だったあたしが先生に怒られたのは、これが初めてだった。



――

それから二日後。

マコトは、東京に行った。

見送りの時。

「そういえば、これな!」

と言って、最後にくれた、青いとんぼ玉。マツさんが見本で作ったものと同じ色だった。

「これ作るの難しくてさー、ガラス使って、星の模様入れたんだ。綺麗だろ?」

「……うん、綺麗」

「サキが青欲しいって言ってたからさ」

「……あはは、五年も前の話じゃん」

「そ、だから最後にな、最後は青のやつ、あげようと思って」

「うん」


見送りから帰ってきた夕方、あたしは中学校に足を運んだ。

そして、休んでいる間の席替えで教卓から一番遠く離された自分の席に座った。誰もいない空っぽの教室の中で、貰ったとんぼ玉を取り出した。

それからしばらく、いろんな事を思い出しながら、目を閉じていた。



――目を、開けた。

とんぼ玉の、掌の上でかすかに残っていた冷たさももう無くなって、体温と並んで温くなっていた。

いつの間にか零れていた透明な涙をぬぐって、ふーっとため息をつく。

立ち上がり、倉庫室の裏の水道へと歩いて行った。

蛇口をひねってとんぼ玉に冷水を浴びさせる。

透明で、西日色の水だった。

水に濡れてキラキラと光るとんぼ玉を、夕焼けにかざしてみる。

太陽に照らすと、青さがよく分からなくなった。あんなに青く見えていたけれど、案外透明だったのかもしれない。夕日を透き通して、果物みたいにぴかぴかと光る、夕日色のガラス。星だと言っていた模様も、果実の粒のように見えてきた。青いはずなのに、蜜柑みたいなガラス玉。

これが楽しかった日々の、小さな夏のまとめ。

大事に握りしめて、見慣れたあぜ道を歩いて帰る。

一番楽しかった夏。
終わって欲しくなかった夏。


涼しいのか温ったいのか分からない風に吹かれながら、あたしはもう殆ど残っていないオレンジ色の空に向かって、夕方の太陽の中を歩いて帰る。

マコトと過ごした時間はたくさんあるのに、思い出すのは夏のことばかりだ。

















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?