3.11
今日で、あの大災害から11年が経過した。岩手県、宮城県、福島県はじめ、広大な地域に甚大な被害をもたらした、あの大災害は11年も前のことなのだ。当時ろきちゃんは小学6年生で、卒業式練習が終わり、帰りの会の準備をしているところだった。何が起こったかも全く分からず、家に帰ってテレビを観たら、経験したことのない凄惨な光景がテレビ越しに、情報として入ってきた。山形県は地震や津波による被害は少ない方だったが、ろきちゃんの住んでいる地域は特に被害が少なく、1時間もせず停電が収まり、生活としては日常に戻ったのだった。それでも、すこし東の方角に行けば、南の方角に行けば、取り返しのつかないほどに日常が壊れてしまっていた。電気や水道だけでなく、物資も、生活のあらゆるライフラインがめちゃくちゃになっていた。仙台の真ん中に住んでいた、親戚は物資が手に入らないと言って、実家を訪れた。すでに1週間ほど経っていたが、それまでテレビが見れてないらしく、津波の映像をその時、初めて見たと言っていた。
3月11日が迫っているという事実に直面した時、このnoteの在り方を考えてしまった。山形県出身として、あの日のことを書くべきか、それとも、実際の被害にはほとんど遭ってないのであの日のことについて言及するのはあまりにも軽薄過ぎるのではないかということだ。ろきちゃんが、3.11について書くことは、むしろ失礼なのではないかと考えた。しかし、途中中断はあったものの、毎日更新しているコンテンツで、山形県出身の、2011年3月11日に地震を間近で見たと思われる、23歳の青年が、そのことに触れず、やれこんな奴がいただの、やれコイツが嫌いだのと、いつものようにnoteを更新することはできなかった。このnoteが偽善者の文章と理解されても構わない。およそ当事者からではない、妄想半分の文章と理解されても構わない。それでも、確かに11年前の今日、尋常じゃないほどの災害があり、多くの人が命を失い、多くの人が希望を失いかけた、そんな事実があったということだけでも、後世に伝わればと思う。
当時、非常に耳障りの良い言葉が出回っていた。「絆」だ。世間は、絆でこの危機を乗り越えようと言った。でも、原子力発電所から出たゴミの処分を受け入れようとする自治体は現れなかった。現地住民が猛反対していたからだ。絆、絆と言いながらも、本当に大切なことからは目を背ける。だって募金したから、だって節電してるから。そうじゃなかった。本当に必要なのは、耳障りの良いキャッチフレーズでも、綺麗事でもない。一連托生の一体感だった。政府の実施する政策を批判したい人はすれば良い。その人にとって、それは正義だったのだから。でも、苦しみもがいている人が確かにそばにいるのは、忘れてはいけない。口を動かすのは後でも良い気がする。
そう感じた11年前の今日でした。そう感じながらも自分の非力さを感じた11年前の今日でした。少しでも、多くの人に希望を与えられるようになりたいと感じた11年前の今日でした。
あの日、当たり前の日常の大切さに気づいたはずの僕らは、このコロナ禍にあって、また、当たり前の日常の大切さに気づかされる。気づいては忘れて、きっとその繰り返しなのかもしれない。失うかもしれない当たり前の日常には、最後まで気づかないかもしれない。それでも、ろきちゃんは当事者として、東日本大震災があったという、ことを発信し続けていきたい。責任として。義務として。意思として。
東日本大地震に伴う災害により亡くなった多くの方の冥福を改めてお祈りすると共に、今なお震災の影響で苦しんでいる人々の一刻も早い復興を願いまして、この文章の締めとさせていただきます。
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