答辞

まだ、本来なすべきことは何一つ達成し得ていない、そんな確信がありながらも、僕は今ここに立っています。それは、今自分が本当に卒業に相応しいというよりも、桜が舞う3月だからここにいるのだ、という感じに悔しさを堪えるしかなさそうです。ヒールの高さの分だけ、着ているスーツがなんとも様になった分だけ、僕らは成長したような気がします。でも僕には、こんなにも額面通りにスーツを着なきゃいけない理由もわからないし、食べ放題に行ってもキャパオーバーなくらいにご馳走を取ってきちゃうし、今日のこの青空に浮かぶ白い雲が何かの形に見えてしょうがありません。本当なら、あのキャンパスのどこかに置いてこなければいけなかったものを、僕は今日、全部持ってきてしまいました。本日はそんな私を筆頭としていいのか分かりませんが、我々のためにこのような式を挙行して下さり、誠にありがとうございます。

寒さから暖かさへ、暖かさから寒さへ、その気温の移り変わりは、恒温動物である我々の生活すら規定し、今また寒さが暖かさへ変わる局面で、僕らは4年間学んだ、この大学を卒業しなければならないようです。今思い返せば、4年前、我々が大学に入学した頃は、右も左も本当に分からない状態でした。その青臭さを今の僕らは、若かった、と吐き捨てることだろうと思います。多くの後輩たちを見て、また4月、4年前の僕たちと同じような新入生を見て、大して生きてないくせに、人生の極意を語りたくなるのでしょう。それぐらいには大人になったという、感慨深さに似た、自分の人生語りは、歳と共に増えようが、全くもって不要な気もします。この4年間はとても長かったです。小学校よりは短くても、中学や高校よりは長く、学校に在籍していましたので。長かったこの4年間を、社会人になるためのモラトリアムと捉えている人がたまにいますが、そんなことは決してなかったと、今思います。列記とした、稼ぎのある中でいたら、悩まなかったであろうことが山のように出てきます。そのひとつひとつが、若いなりにも噛み締めるに値する大事な大事なモノです。そんな4年間、先輩や先生方、大学職員の方々から沢山のご教授を頂きました。本当にありがとうございました。

さて、我々は大学であらゆる事象をシンプルに理論化し、理解する方法論を学びました。しかし、今その課程を全て終えて、ここに立っていますと、世界は複雑極まりなく、驚くほどだ、と感じます。こうしてこの会場に集まっています、我々ですら、一緒くたに表現する言葉が見当たりません。男性もいれば、女性もいる。大学生もいれば、大学院生もいる。スーツの人もいれば、袴の人もいるし、着物の人もいる。このぐらいの規模ですらそうなのですから、そりゃあ世界はまだまだ平和に収束しないし、幸せの価値観は当然統一されないのだろうなと、この壇上からしみじみ感じます。そんな複雑怪奇な世界に、我々の多くは学生というシンプルな肩書きを外されて、飛び込むことになります。少なくとも僕は、不安で仕方ありません。不安で不安で、でも、きっとこの大学に入学する時も、同じくらい不安だったことでしょう。そして、なんとなくその不安を乗り越えてきました。僕らは人生で数々の壁に直面し、ある時は完膚なきままにぶちのめし、またある時は解決しないままに全てを忘れ、それをアトランダムに繰り返して、ここまで来ました。きっとこれからも、それは変わらないことでしょう。ギリギリで勝つことと敗北を繰り返しながらこれからも僕らは強く強く生きていきます。妥協と諦めの結石が出てくる日まで。納得のいく、妥協と諦めの結石を認められる日まで。

我々がここまで育ったということに関わって下さった全ての皆様に感謝を添えて、答辞とさせて頂きます。

こんな答辞を、成績優秀者として読みたい学生時代だった。

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