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学生の街(短編小説)

朝起きて、歯を磨いて、顔を洗う。起き抜けのコーヒーを堪能するために、蛇口をひねりポットに水を入れる。それがかたんと音を立てるのと同時に、あまり趣味のいいとはいえない赤色の、古いトースターから食パンが飛び出す。
 ナイフの先でバターが広がっていくのを感じながら、僕の頭の中に響いているのはジョン・コルトレーンのマイフェイバリットソング。

「これが、きっと求めるべき、目に見える幸せだよ。」と僕は言う。
「それは、あなたの、幸せでしょ。」
 彼女は昨日の夜、あまり眠れなかったようだ。少しむくれた顔が苛立たしげに歪められた。

 ベランダのドアからはカーテン越しに、雨が打ち付けている音が聞こえる。まるでタバコの色が染みついてしまったようなベージュ色のカーテンの、元の姿を僕は思い出せない。きっとこのカーテンは3年前にはもっと透き通ったベージュだったはずだと思う。あるいは元からそうではなかったのかもしれない。この色になるべくしてなったのかもしれない。
 
 3年の長さと言えば、中学生が高校生になり、高校生が大学生になり、それは一つの疫病が流行っては過ぎ去っていくまでの大凡の期間でもあった。時間について僕は何一つ確かなことは言えないけれど、それでもできる限りに客観的に状況を言い表すなら、およそ1000日間の生活は僕たちの見栄や配慮といった仮面を綻ばせ、色褪せさせるには十分だった。波がひいては押し寄せ、海岸を削るように、有無を言わせない自然な力学が働いていた。


 僕は二人分の目玉焼きを慣れた手つきで作る。一つは半熟で、もう一つはしっかりと火が通っている。それからベーコンを焼いて、冷蔵庫から昨夜の残りのサラダと、トマトを出して、カットしてからお皿に盛りつける。彼女はどんなものでもあまり火を通していないものが好きだったし(といっても本当に何もかもと言うわけではなかったが)、僕は比較的に火の良く通ったものを好んだ。
 三枚のプレートを両腕に抱え、控えめな様相の丸テーブルの上に載せる。彼女は食事なんて目に入っていないと言わんばかりにスマホを眺めている。手は動いていない。液晶に映った何かを、じっと見つめている。あるいはそのふりをしている。コーヒーとドレッシングと彼女のつけた香水の匂いが、雨の湿気からか今日は一段と強く混ざり合って僕の鼻腔を刺激する。

「今日の雨は夕方には止むんだって。」と彼女は言う。
「じゃあ行きは送っていくよ。」と僕は言う。

 それにつづく言葉はない。およそ1000回の朝食は生活を僕らに必要なだけ簡素にしてしまった。それは一日中稼働している機械の各部位が、使われる分だけ無機質に摩耗していく様子に近かった。コーヒーカップを片手にぼくは立ち上がり、ベランダのカーテンを開ける。六畳二間の、このアパートの一室から見える景色なんてたいしたことはない。駅から近くにある国立大学へと続く道に沿って建てられたアパートから見えるのは、寝不足と溌溂さが入り混じった眼をした学生と、雨合羽を着て犬の散歩をしている婦人だけだった。

 いつしか、彼らの若さ、将来性を羨み、その無垢さを見下ろしていた。
 いつしか、彼らの生活がいかに安定しているかに感心し、その非生産性を蔑んでいた。

 ここは学生の街。すでに学生と言うモラトリアムを通り過ぎた僕たちに与えられた居場所はこのアパートの一室くらいだった。
 空のプレートに、金属製のフォークが触れる音がして、それからライターを鳴らす音がする。目を細めながら、スーツ姿に身を包んだ彼女は、美味しそうにタバコの煙を吸う。これも3年前には見られなかった日常の一つだ。すっかり口から煙を吐き出して、楽器の音階を確かめるように、パズルのピースをはめるように、君は言う。

「私たちの幸せは、この街にしかあり得なかった。寄り添って進んできた。でも人生の意味なんかにはしなかったわよね。」
 彼女は一呼吸置いて、躊躇いがちに言葉を探す。
「あなたにとって…」

 僕はその場で振り向いて、寝室へと向かった。少し大きく息を吸って、スーツのかかったハンガーを手に取る。
 
 今日も1001回目の朝を迎える準備を整える。
 ここは学生の街。僕らではなく、彼らの街なのだ。

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