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6. 「家族」の入手

 その日、ユウゾーを連れて、病院からタクシーで高校に向かいました。学校側のご厚意で、図書室のバックナンバーを閲覧させてもらい、高校一年のときに書いた作文「家族」のコピーを入手することができました。
 ここに、そうやって入手した作文を載せます。誤字・脱字、誤用が散見され、恥ずかしさもあるのですが、そのまま載せます。

◆ 作文「家族」(1996)

 僕の父は、性格的にはあのアニマルズの「朝日の当たる家」に出てくる親父に似たろくでなしで、酒ばかり飲んでろくに仕事にも行かない。週三日休むのはいつものことで、時には週四日休むこともある。これでよく給料もらえるものだと、家族や親類みんなが呆れている。金もないのに賭事が好きで、麻雀ばかりやって、借金を山ほど生んで、貧しい家をますます悪化させた張本人である。頭はいいようだが、さすが僕の父親で、僕より気違いじみた事をする。慣習を全く気にしないという点が表に出る時はいいが、裏に出ると見れるものではない。いつも全てがうまくいっていないようなので機嫌が悪く、いつもけんか腰である。
 一方、母は、気まじめや勤勉ではなく、いつも寝てばかり、時間にルーズで、議論をしてもいつも問題とは関係のないことを言う。いつも人の陰口を言う。本人は陰口のつもりでも相手に聞こえてたりする。またこの陰口が長いのだ。
 一つ母の時間にルーズな面の例をあげよう。昼食はだいたい二時半。小学校に入るまで、「おやつ」という言葉は昼食のことだと勘違いしていたぐらいだ。小学校に入って、時間通り食べられる給食をどんなに不思議に、また感激に思ったことか。
 僕の家族には、あと妹が二人いる。二人とも中学生になったせいか、自己主張するようになったが、度が過ぎてわがままである。年から年中、つばめのひなみたいに騒いでいる。
 こんな連中が狭い家にいっしょに住んでいるから、これまたひどい家になってしまう。どのようにひどいかと言えば、毎日毎日家のどこでも内戦が起こる。ただ僕の六畳一間を除いては。たまに祖母が来た時に自衛戦争がある。どうせ祖母だって金を借りにか、家族の誰かに悪口を言いにしか来ないんだから。家に僕を除いて二人いれば必ず小戦闘はある。

 パターンは十五年間見てきて、だいたい決まっているように思われる。
 例として、父と母の場合をあげてみよう。原因の多くは、食事の事か金の事である。食事の場合は、母が食事をかなり遅い時間に作ったり、作らなかったりするときである。一方、金の場合は、ろくに稼ぎもしない父が要求するときである。
 出出しはいつも父である。「金!」か「飯くれ!」と大同小異なことを怒鳴る。母は「仕方がないでしょ。」みたいなことといっしょにいいわけと何か皮肉を言って小反撃に出る。そこで父は「つべこべ言うな。オレにゃこうこうの理由があるんだ。」と大義名分もどきを言う。「だけど、前はああだったじゃない。」と母は父の罪を根掘り葉掘り言う。時には関係のないことまで。そこで父は「うるさい!」と一喝して、自分の部屋に立籠もるか、外に出るかする。その後母は、独り言か子供達に話しているか知らないが、決まって台所で父の文句を延々と言い続ける。こういうことが毎日、我が家では繰り広げられているのである。
 一方、僕は何をしているかと言えば六畳の自分の部屋でどのけんかにも関わらず、安全地帯を築いている。どんなに激しい争いになっても安全地帯を保って、止むのをただひたすら待つ。何事も手がつけられないのなら、待つのが一番。
 しかし、待つのだって楽じゃない。ふすま一枚で仕切った部屋ぐらいでは、小さな紛争でもときの声は聞こえる。うるさくてたまらない。たまに僕は、ビートルズの「All You Need Is Love」やジョン・レノンの「Imagine」をかけて平和をアピールする。
 勉強している時にもめごとが起こったら、音楽を流したり、問題に集中したりして、ひたすら自分の世界に入る。さわがしいところで集中して勉強できることは、僕の悲しい自慢である。これが裏目に出て、何か音が聞こえないと耳鳴りがして頭がおかしくなる。高校の推薦入試の控え室、どんなに辛かったことか。そして、静寂を破るために、どんなに努力したことか。
 家族の話に戻るが、全く、血のつながった同士で年中無休、けんかができるものだ。この人達は愛し合っているのだろうか。こう思えるくらい愛のない家だから、僕は親も妹もみんな嫌いだ。いなくなってしまって、良き人に思えるものなら、みんなあの世に行けばいいのに。いや四人行くのは手間がかかる。僕一人が行けばいい。待てよ、死んだら家族が良いものに感じれるのかわからない。ちょいと八兵衛、そこまで行って見てきておくれ。
 家族ですら愛せないのだから、外の人も愛せまいと僕を非難する人がいるだろう。実は僕もそう思う。だから僕は誰も愛せないし、誰からも愛されないだろう。親族同士なのに憎み合い、啀み合う人々を見て、この人達と血がつながっていると思うと、自分はきっと誰をも憎み、誰からも憎まれるのだろう。

 先日、ある男の友人とビーチに行った。初め、ルネッサンス沖縄のビーチに入る予定であったが、行ってみると施設利用券が高い高い。払わないで入る気にもなれなかったので、万座ビーチに行くことにした。ところが次のバスまでまだまだ時間があった。だから歩いたら、二本逃した。やっとムーンビーチ前に着いて乗ったのが、一二〇番。観光客相手のこのバスは、地元の僕達からも容赦なく高運賃を取った。どうにか万座ビーチに着いて泳ぎ始めたのが午後三時半。五時頃から曇り始めて、三十分震えながら耐えたが、雨が降り始めたので浜に上がって、着替えて帰ることにした。バス停に行ったら、バスが来るまでまだ少し時間があったので、相棒はジュースを買いに少し離れた自販機へ。僕は独り、バス停で、今日一日のことを思い起こし、なんだかとても悲しい気持ちに包まれていた。
 そこへ若い女性観光客二人組がバス停に来て、バスの時刻表、いやバスの番号の意味がわからなくて困っていた。そこで僕はなぜか急に「どうしましたか。」と尋ねた。彼女達は国際通りに行きたいようだった。この後すぐに那覇行き牧志経由のバスが来たので、あのバスだ、と教えた。彼女達はバスに乗る折りに、そろえたのかそろったのか知らないが、ありがとうと言った。近視なので四メートルほど離れた彼女達の顔はぼやけてよく見えなかったが、難聴ではないおかげで声だけは、はっきり聞こえた。この言葉は僕の心をさわやかにした。笑顔を返したつもりだが、あまりにすがすがしくなって自然と笑ったのかもしれない。こんなに自分が素直な人間だったのかと自分でも驚いていた。別に若い女性だったからではない、と思う。変な疑いはよしてくれ。あの言葉を受けた時、真っ直ぐ、飛び込んで打った面が決まった時の響くような音が聞こえた。
 彼女達が乗ったバスが行ってすぐ、相棒がジュースを買って戻ってきた。どうしてもう少し早く戻ってこなかったんだ、同じ那覇行きの人達だったから、一日中、男といっしょという悲しい事実から抜け出せる所だったのに、と冗談で軽くなじった。確かにそうだった。これもこの日の愁いの一つだった。
 帰りのバスはかなりオンボロで、エンジンの音が、ブンブンともゴーゴーとも聞こえる騒音の中で那覇までの約二時間を過ごした。
 しかしそんな中でも僕は機嫌が良かった。全く知らない人に自分から声をかけて手助けした自分を自分で誉め、また感謝される喜びを味わっていた。そして自分もそんなに悪い人間でもないように思えた。 バスを降りて、相棒と別れてから、僕は独り、暗い細い道を通っていた。その道は幼いころ、バス停へ行くのにもバス停から帰るのにも母といつも通った道で、その頃はまだ舗装されてなく、でこぼこで側に草が生えていた。その側の草の中に紫色の小さなかわいい花が咲いていて、僕はしゃがみこんで見つめていた。母はそれがすみれの花であることを教えてくれた。その時の母の顔は優しそうだった。そのすみれが咲いていた道は、今やコンクリートで舗装されて、なだらかな坂は階段となり、すみれどころか雑草すら生えていない。
 ひょっとすると母はそんなに悪い人間でもないかもしれない。父も同じような顔を見せたことがあるし、妹達もかわいい顔を見せたことがある。父も妹達もそう悪い人間ではないかもしれない。ということは、そう悪くもない人間が、そう悪くもない人間を相手に、大した理由もなしに対立している。とすると、もともと人間は対立が好きなんだろう。対立を好むことは人間の性なのだろう。僕はこの辛い現実を十五年間見てきたし、今からも見続けるのだろう。
 しかし、父と母は少なくとも結婚する時は、助け合い、協調し合っていたのだろう。また、あの観光客の人達も、もし近所に住んでいたら、いい友達になって互いに助け合っていたかもしれないし、僕が知らない土地で困っている時に、僕と同じように僕を助けてくれる人はいるだろう。それから、相棒だって知り合ってからもう十年も経って、互いに助け合ってきたし、助け合っていくのだろう。
 こう考えてみると、人間は血で血を洗うこともあれば、全く知らない人と助け合うこともある。だから、人間はどんな人とでも対立するし、またどんな人とでも協調するのだろう。
 だからきっと僕も人を憎み、人に憎まれ、人を愛し、人に愛されるのだろう。
(開邦高校文集『雄飛』第10号 pp.29-32)


◆ 自分で読み返して

 その晩、実家に戻った私は、コピーした自分の作文を読み返しました。
 読み直すまで、すっかり内容を忘れていましたが、確かに、私は、自分の家族関係に絶望しながらも、誰か他の人と幸せな人間関係を築ける可能性に希望を見出し、それを作文に書いていました。
 しかし、その希望を感じたときの心境についてはやっぱり思い出せませんでした。
 一方で、私は希望とは違う何かネガティブなものが額に何本も縦線が入るようにむずがゆく蘇ってくるのを感じました。
 この作文は当時の私の体験に基づいているが、全てが本当の話ではない、誇張や脚色があることにも気づきました。
 例えば、作文後半に出てくるバス系統120番のバス運賃について、本当のところは運賃が他のバス系統と比べて高かったかどうかは疑わしいところです。おそらく運賃は同じだったのでしょうが、那覇近郊と比べてバス停の間隔の大きい県北部の田舎では、バス停の度に運賃が格段に上がっていくことに、当時の私がいかに不満に思っていたかが表われています。
 また、前半の家族の描写についても多分に脚色がありました。「小学校に入るまで、『おやつ』という言葉は昼食のことだと勘違いしていた」なんていくらなんでも大袈裟ですよね。
 またお金に関する両親のいさかいについては、実際の状況と異なっていました。事実は、給料袋を握っていたのは父で、父が生活費分を母に渡していたので、父から母に向かって金を要求することはありえませんでした。ただ、父は自分の小遣い、飲み屋のツケや別の借金の返済に充てて、母が必要とする生活費分を十分にあるいは全く渡さないことがありました。それで、母は叔母達にお金を借りに行くことも度々ありました。月々の家賃、公共料金、新聞代等、払えないことが何カ月も続くことがありました。そういうわけで、父と母はいつもお金のことでケンカが絶えなかったことは本当のことでした。作文では、そのあたりのややこしい状況を端折る代わりに、ドラマに出てきそうな「ろくでなしの親父」像を担いでいました。
 そんな誇張や脚色に表われている私の批判的な態度の中に、当時の苦悩を感じました。そして、当時、私が泣いたのは、誰か他の人と幸せな人間関係を築けるかもしれないという希望の光のためではないことを思い出しました。
 当時、私は、いさかいの絶えない家族を見て、心のどこかで私もこの惨めな人達と同じなのだろうとはうすうす感じていながらも、「自分はこの人達とは違う」という自意識でなんとか自分を保っていました。その自意識をもって、大して悪くもない人が悪くもない相手に、大した理由もなしに傷つけ合う自分の家族の実情を、まるでお茶の間からテレビでも見るようにバカにした目で眺めていました。
 そんな自分の過激で批判的な家族描写に、自分の悪意を感じました。その悪意の中に、当時の私の悲痛な叫びが聞こえました。大して悪くもない人達に自分が悪意を持っていることの苦悩。自分の家族に悪意を持っていることに、私は罪の意識を感じていたことを思い出しました。そして、この罪の意識のために、作文のことを家族には伏せていたのでした。
 そして、お互い大して悪い人でもないのに、どうして傷つけ合い続けるのか、どうして幸せになれないのか、その心の嘆きのために涙を流したのを思い出しました。
 それから、当時、どうして私が父に読んでほしいと思っていたかも思い出しました。当時、父は一体何を考えて誰の得にもならないことをやっていたのだろうか、それを聞いてみたかったのです。
 私は作文のコピーをリュックサックの中にしまいました。

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