7. 父と「家族」
◆ 父、「家族」を読む
次の日、ユウゾーと一緒に父の病室を訪れました。
私は、作文「家族」のコピーを渡して言いました。
「この作文、僕が高校一年のときに書いて、そのとき県ですごい賞をもらったものなんだ。今まで家族には見せてなかったんだ。だけど、父さんには一度読んでほしいと思っていたんだよね。」
父は、どれどれと言ってコピーを受け取ると読み始めました。
読み始めて、すぐに顔を真っ赤にして「ホッホッホォー!」と高笑いを上げました。
私はニコニコしながら、父の反応を観ていました。
高笑いの他に、苦笑いを含む笑み、身動ぎしないしかめっ面の一方、右手のガッツポーズを伴うしかめっ面・・・、いろいろな反応が父に見られました。
自覚していた自分の欠点に笑い、自分と認識がずれている批判にしかめっ面、自分の不満を代弁したような母への批判にガッツポーズしていたのでしょうか。
作文を読み終わると、父は笑いながらこうコメントしました。
「いいドラマになりそうサ。ドラマになったら、『この主人公はオレなんだゼー!』って自慢するサ。」
これを聞いて、私は、冥土の土産にちょうど良かったと思いました。
それから、私はこう聞きました。
「僕も息子ができて、親っていうものの大変さがわかるようになってきたんだけど。家庭を持ってからも酒だったり、賭け事だったり、女だったり、どうしてあんな無茶苦茶やっていたわけ?」
親父は苦笑いしながら、こう答えました。
「それがかっこいいと思っていたサ。本当に馬鹿だったサァ。」
私は拍子抜けして、思わず素直に聞き返してしまいました。
「それだけ?」
「あぁ、たとえば雀荘で麻雀しながら、タバコ1ダースを人差し指と中指の間に挟んで、口を大きく横に広げて一度に吸う、当時はそんなことがカッコイイと思っていたサ。」
「それって流されていただけってこと?」
「あぁ、何も考えずに、流されていただけってことになるかな。」
この答えを聞いて、私ははっきりとこう気づきました。そう、ただ父も知らなかっただけだったんだ、と。
コンピュータ・プログラムは入力情報を与えられると何らかの処理をします。その処理が外見上どんなに複雑で難解に見えても、ただ決められた手順に従って自動的に処理しているだけで、プログラムに意思などありません。
そんなプログラムと同じように、自分の内側に起こっていることを見ることのない人は、自分の周りの出来事に、それまでの人生でプログラムされたパターンに従って自動的に反応しているだけで、そこにその人の意思と呼べるようなものはほとんど何もないのです。
父も母も、妹達も、私も、私達家族はみんな、それぞれただ決まったパターンで反応していただけだったのです。衝突されたのをきっかけにドミノ倒しのように、自分や周りに連鎖的に衝突を引き継いで、互いに乱雑に衝突を繰り返す、そうやって不協和音を奏でていただけだったのです。
作文を書いた当時、私は、大して悪くもない人が大して悪くもない相手に、大した理由もなしに傷つけ合うことは、当然のこと、定められた法則として、それ以上考察することはありませんでした。その後も、私は自分自身と向き合うことはなく、無意識のうちにそれをどうすることもできない人間の性(サガ)と見なしていました。
父との対話のおかげで、ようやく、当時の私達、父も母も妹達も私もただ知らなかっただけなんだ、無知だったんだと気づいたのでした。
そして、もう一つ、私は気づきました。
もともと父はとても理屈屋でした。感情を爆発させることもありましたが、そんなときでさえ表向きは正論をぶつけてきました。そんな理屈屋の父なのだから、自分の人生について自分の信条に則って少しは理性的な考察をしてくれるものと、どこか期待していた自分自身に気づきました。
親が自分よりも優れている、物を知っていると、子は期待しがちです。親が自分の上にいるような感じです。反抗期に入って、親の権威を表面的には認めなくなっても、それは、心ひそかに感じ続けている親の権威への反動です。親の権威を克服したつもりになって、自分の中に依然として潜んでいる権威への依存心にそのまま気づかずに、大人になる子がいます。私もそのような子だったのです。
また、自分が父と母の板挟みで苦しんでいたこと、いつも母からお金がないと聞かされて不安だったことなど、そのころの自分の苦悩の原因を、責めるべき何かを、自分の外側に求めていたのかもしれません。
私は、父の振る舞いが理性的でないことを知っていましたが、にもかかわらず父に何か理性的な背景を求めていたのです。
自分と同じように、父もただ無知だった、このことを受け入れたとき、もはやこの無知は自分のものでも他の誰かのものでもない、そこには責めるべき相手は誰もいない、ということを初めて体験を通して理解しました。そこには自分と他人を区別するような壁はなくなっていました。
◆ 両親の結婚の理由
次に、私はこんな質問をしました。
「ところでさ、どうして母さんと結婚したの?」
「それは君が生まれると聞いたからさ。」
父と母がデキチャッタ婚であるのは、以前から知っていましたので、もう少し掘り下げて、母との出会いから経緯を聞いてみました。
父としては母との交際は不真面目ではないにしても、結婚する気はなかったようで、母の妊娠報告は、父にとってまさに寝耳に水でした。責任を取るということで、大叔父とともに、母の実家のあるヤンバル(沖縄本島北部の農村地域)の祖父、オジイのところに挨拶に行くことになったそうです。
「あのとき『娘さんを幸せにします』なんて言ったけど、約束、果たせなかったサ。ヤンバルのオジイには顔向けできないサ。」
父はまた苦笑いしました。
父が酸素マスクを取り出したので、父と握手をしてから、おとなしくしていたユウゾーと一緒に病室を出ました。
その夜、家に帰ってから、母にも同じように、どうして父と結婚したのか聞いてみました。
母の答えはこうでした。
母の母、つまり私の母方の祖母は、母が二十歳すぎのころから、病気にかかって衰弱していました。母は文学が好きで、勉強を続けてそのまま独身でいるつもりでしたが、自分の母が生きているうちに結婚して安心させたいという思いが強くなり出して、24歳くらいから結婚することを考えるようになったそうです。そして27歳で出会った父は、国費留学生としての学歴や職業など社会的ステータスも良く、安定した家庭を築けそうに見えたので、決めたということでした。
母からこの話を聞くのは初めてでした。父の話よりもこちらの方が意外でした。
ふと、大学進学で仙台に発つ前に、父が真顔で言った「いいか、絶対、避妊だけは忘れるな!」という警告を思い出しました。それには、こういう背景があったのかと、このとき初めて繋がりました。それまで母の方が犠牲者と思っていましたが、結婚の経緯だけ見ると父の方がある意味、「犠牲者」だと思いました。そして、その後のことはどっちもどっちだと、私には笑えてきました。
それから、続けて母は語りました。
「意外だったのは、あんたのお父さんが子供の面倒をよく見ることだったサ。子供は好きそうじゃなかったのにね。あんたが赤ちゃんのころからよく世話をしてくれた。うんちのおむつもよく変えてくれたよ・・・」
母からこの話を聞いて、私にも心当たりがあることを思い出しました。それは、父が私にしてくれたことではなく、私と息子達との関係についてでした。
私は、子供のときから父からデキチャッタ婚であることを聞いていました。そして、仲の悪い両親を見る度に、自分が生まれたからこの人達は結婚しなければならなくなったんだよなと、冷静に見ていました。そこに自分の存在を責める気持ちはありませんでしたが、自分の存在は両親にとって悲劇の種でしかないのだろうと、否定的な思いがどこかにありました。そして、自分は結婚なんてしないでおこう、ましてや子供を作るなんてしないでおこう、と思っていました。
家族を持つことは煩わしいだけだと思っていた私が、どうしても子供が欲しいという妻に折れたとき、私は「観葉植物に水を遣る程度にしか子育てには関与しないよ」と言ったことがありました。そのころの私は、たまの水遣りだけでいい、手入れの簡単な観葉植物でさえ枯らしていたのです。それほど子供に無関心でした。ところが、長男の誕生に立ち会ったときの衝撃で、何かが変わりました。私も父と同じように変わったんだとわかりました。
そして、私の誕生が父にとってどれだけ重要だったかということを初めて知り、こう思いました。私が生まれてきたことは両親にとってそんなに悪いことでもなかったかもしれない、と。
「あんたが小さいときにミドリガメを触った手で何かを食べてお腹を壊したときも、母さんはモミジとツグミの二人を看なきゃならないから、お父さんが仕事休んで入院先で看病していたし、モミジが車にひかれて脚を骨折して入院したときも病院で看病していたのはお父さんだった・・・」
母は、その後も懐かしそうに父の話を続けていました。
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