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1. 実家と私

 誕生日から二週間後、沖縄で行われる高校時代の友人の披露宴に出席する予定で、久しぶりに帰省することになっていました。

◆ 過去の帰省

 高校卒業後、沖縄を出てから、すでに10年余り経っていました。その間、私が帰省したのは、成人式のとき、大学卒業のとき、結婚式とその準備のとき、そして次男ユウゾーが生まれてしばらく経ったときの、五回でした。
 高校卒業後、仙台の大学に進学した私が、初めて帰省したのは、大学二年の冬休みで、地元での成人式と、いくつかの同窓会に参加するためでした。そのとき、私は年末年始の二週間を地元で過ごしました。その間、私は実家に滞在していました。
 ある晩、同窓会から帰ってくると、父と母がものすごい剣幕で言い争っていました。実家で暮らしていたころなら「我、関せず」の態度を保ったまま、自分の部屋に入って寝たであろうものの、久しぶりの帰省のためか、あるいは酒に酔っていたのもあってか、このとき私はわざわざ仲裁に入っていました。
 そして、父と母の不毛な口論の中に飛び込んで、巻き添えを食らった私は、しまいにウンザリして、その夜、家を飛び出しました。家を出たところまでは覚えていました。翌朝、気づいたときには、私は大雨の中、父のオンボロ軽自動車の運転席で寝ていました。キーは運転席のドアに外側から挿したままで、車は駐車場から動いた形跡はありませんでした。もし運転していたら、ひょっとしたら雲の上にいたかもしれません。
 「やっぱりこんな家に帰ってくるんじゃなかった」と本当に後悔しました。
 その日から、連日連夜、飲み会や集まりで、外で友人達と過ごしていたため、家で家族とほとんど過ごさずに済みましたが、それでも家に戻ってくると、不機嫌な父だけか、愚痴っている母だけか、あるいは言い争っている二人を見ることになりました。この光景は私が幼いときから何も変わっていませんでした。
 この帰省以降、私は、自分に家族はないものという風に、存在を無視して、家族と関わらないようになりました。
 その後、大学在学中に帰省したのは、それから二年後、大学四年のときで、下の妹ツグミが18歳で生んだ姪に会いに行った一度だけでした。ツグミは子を産んだ後、すぐに離婚して、実家に出戻っていました。私は、就職前にこの姪に会って、せめて祝福だけはしたいと思い、帰省しました。ただ、家族とは極力関わり合いたくないという思いから、滞在はごく短いものでした。
 大学卒業後、東京の会社に就職し、入社一年目に、学生時代から交際していた妻と結婚しました。入籍するとなっても、妻を沖縄の両親に紹介する気などありませんでした。妻にも関わってほしくないと思い、実家の両親を遠ざけていました。しかし、「是非会いたい、そのために結婚式は沖縄でしたい」とせがむ妻に結局折れて、結婚式の準備のために、妻を連れて沖縄に帰りました。実家近くのホテルで滞在し、実家には妻を一度連れていっただけでした。そして、沖縄での結婚式のときは、妻の希望で二親等以内ということで、双方の両親と兄弟姉妹、祖父母だけで、こぢんまりと結婚式と食事会だけ行いました。
 長男ゲンタが生まれると、私の両親にも子供を見せるために帰省したいと妻から度々頼まれましたが、ハイシーズンは航空券が高く、オフシーズンは仕事が忙しいと言って、私はなかなか帰ろうとはしませんでした。しびれを切らした妻は長男を連れて毎年、二人だけでオフシーズンに沖縄に行っていました。
 次男ユウゾーが生まれたころ、仕事に少し余裕が出たのもあって、オフシーズンに長期休暇を取って、私は家族を連れてやっと沖縄に帰省しました。ただ、このときは実家に帰省するというよりも、東京から観光に来たという感じでした。実家には新しい家族を連れて少し立ち寄っただけで、あとは本島の観光地を巡ったり、実家近くの港から船が出ている渡嘉敷島に滞在したりと、内地からの観光客とほとんど変わらない滞在でした。
 その頃の私にとって、実家は本当に疎遠なものでした。
 この帰省後、仕事がどんどん忙しくなり、それから帰省することはありませんでした。

◆ 心との直面

 その後、私は仕事に、キャリアに、そして人生に行き詰まりを感じるようになりました。そして、とうとう私は、自分の心と真正面から向き合わざるをえない状況に至りました。
 このとき私が自分の心と向き合うためにとった方法は、呼吸と体の感覚に気づきつつ平静でいる、という言葉にすると至ってシンプルな方法です。
 心と体は密接に関係しています。深呼吸するとたかぶった気持ちが落ち着いたり、口を大きく開けて笑い声を上げているうちに本当におかしくなったりと、体への働きかけが心に与える影響を実感したことは誰にもあるかと思います。また逆に、心の変化は必ず体の変化となって表れます。思考や感情が心に浮かぶと、必ず体にもなんらかの変化、呼吸の変化や感覚が伴います。その体の変化に気づきつつ、体の感覚や思考や感情に囚われることなく、執着も反発もすることなく、ただあるがままに受け入れて、平静であり続けると、その体の変化は遅かれ早かれ収まります。そのときには、思考や感情によって乱れた心は穏やかに、ガチガチに強張った体は緩み、リラックスした状態になるのです。
 そうやって自分の心と向き合い始めると、ときどき、それまで思い出すことのなかった昔の記憶が突然、心の奥底から蘇ってきます。そんなとき、これまでの人間関係について思い起こすことが多くあります。そして、自分がこれまで人との関係にフタをしてきたことに気づき始めるようになるのです。
 そういうわけで、私は、これまで避けてきた家族との関係に向き合わなければならないと思うようになっていました。

◆ 帰省の準備

 友人の披露宴式に参列するために帰省することになったとき、この際、久しぶりに父や母ともゆっくり話がしたいと思いました。そこで、結婚式前の一週間、帰省することにしました。
 実はこの年、それまで熊本に住んでいた上の妹のモミジが旦那さんの転勤で沖縄に引っ越してきていました。実家で二人の姪と暮らしていた下の妹のツグミも含めて、私達家族五人が揃うのは、熊本でモミジの結婚式で集まって以来5年振り、沖縄では15年振りのことでした。ですので、せっかくなので家族揃って話でもしたいと思いました。
 また、まだ学校に行っていない、ユウゾーも連れていくことにしました。最後に帰省したとき、まだ一歳にも満たないユウゾーも連れていったのですが、そのとき、父はまだ単身赴任中で、まだユウゾーは父に会ったことがなかったからです。

 ところで、このとき、実家のアパートには、母と下の妹ツグミと二人の姪の四人が暮らし、一方、父はそのアパートから歩いて10分ほど離れたウィークリーマンションに暮らしていました。
 父は在職中、離島への単身赴任が多く、この前の年に石垣島で定年退職を迎えました。離島での単身生活が長かったせいもあり、荷物が多くなっていました。退職して那覇に戻ることになったとき、実家には荷物が入らないということで、とりあえず父は実家から近い部屋を借りて、そこで暮らし始めました。
 が、父が那覇に戻ってから一年半経っても、変わらず別居状態でした。
 ですので、私は帰省を知らせるのに、父と母の両方に知らせる必要がありました。

 10月中旬、私は父の携帯電話にかけて、帰省の予定を伝えました。そして、帰省のついでに、家族みんなで食事でもしようと提案しました。そのとき、電話越しで父は快く返事をしました。
 一方、母にも電話をかけて、同じように帰省の予定と家族での食事について話をしました。合わせて、実家の、もともと父が使っていた部屋に、とりあえず初日は一泊させてもらうよう頼みました。妹達からは、その部屋は荷物で一杯だと聞いていたのですが、小さいユウゾーと私の二人くらいなら一晩は泊まれるだろうと思っていました。歓迎と戸惑いで葛藤している母を電話越しで感じながら、実家に一泊することにして、電話を切りました。

◆ 作文の思い出

 両親に帰省の予定を伝えた私は、帰ったら両親とどんな話をしようか、考えていました。
 誕生日の翌日、高校時代の旧友達と東京で再会する機会があったのは、ちょうどそんなときでした。
 再会の場で、私が高校のときに書いたある作文のことが話題になりました。
 私は高校一年の夏休みの作文の宿題で「家族」という題の作文を提出しました。
 その作文は、家族同士いさかいの絶えない、仲の悪い家庭で育って、自分もきっと誰をも憎み誰からも憎まれるだろうと人嫌いに陥っていた自分が、そんな自分でも誰かを愛し誰かに愛されるだろう、という希望を書いた話でした。
 そんなあらまし以外、具体的に書いた内容はすっかり忘れていましたが、作文提出後のことが次々に思い出されました。
 宿題の提出後、その作文は、私の知らないうちに、その年の県の高校生作文コンクールで最優秀賞に選ばれ、そして、またまた私の知らないうちに、全校生徒向けに校内放送されることになりました。放送部の生徒が読みあげるのを全校生徒が教室で席に着いて聴いていました。ただ居たたまれなくなった私だけは、教室のベランダに出ていました。ベランダまで聞こえる放送を耳にして、教室のみんなに背を向けて壁に突っ伏して忍び泣いていた自分の姿が蘇ってきました。
 一方で、家族に読まれることを恐れて、家族にはその作文のことを決して口にしませんでした。
 そんなことを思い出しているうちに、ふと、いつか父にはあの作文を一度読んでもらいたいと、心のどこかでずっと引っかかっていたことを思い出しました。今となっては、作文の内容もすっかり忘れてしまっていたので、どうして父に読んでほしかったのかも思い出せなかったのですが、家族に作文を読まれることを恐れていた気持ちはいつしか消えていました。
 母校では、各学年の中から選ばれた作文が、毎年『雄飛』という校内文集に収められて、年度末に全校生徒に配布されていました。私の作文が収められたのは高校一年に書いた「家族」の一度きりでしたが、私は毎年『雄飛』を取ってありましたので、実家に帰ったら見つかるだろうと思っていました。

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