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2. 父の危篤

◆ 「風に吹かれて」

 11月に入り、沖縄に帰省する予定の四日前、私はなんとなくボブ・ディランを聴きたくなって、CDをかけました。
 ボブ・ディランは1960年代にデビューしたアメリカの歌手です。彼は人々に世情を問いかけるプロテスト・ソングをよく歌い、ベトナム戦争に反対する当時の若者達に特に人気の歌手でした。父も彼の歌を好んで聴いていたそんな若者の一人でした。
 私は、中学に入学して英語を勉強し始めたとき、父からビートルズやサイモン&ガーファンクルといった洋楽のオールディーズを勧められて、それらを聴いていました。
 まだ「Hello, I am Nancy.」程度しか習っていなかった私は、歌詞を見ても何もわかりませんでした。だから、四本罫線入りの英語ノートに歌詞を写しては、日本語の意味を父に聞いて書きこんでいました。ボブ・ディランの代表作「風に吹かれて」もそのように父に訳してもらった一曲でした。
 「風に吹かれて」の原題は「Blowin' in the Wind」です。これは歌のサビの「The answer is blowin' in the wind」(直訳すれば、「その答えは風の中に吹かれている」)に因んでいます。この歌は、世界中にある貧困や差別、戦争といった数々の苦しみが一体いつになったら無くなるんだという趣旨の問いかけを何度も、象徴的に言い変えながら繰り返し、「その答えは風の中に吹かれている」と何となくさわやかな、だけど謎めいた文句で締める、そんな歌で、当時の若者にとても人気のあった歌でした。
 中学生のころ、私はこの歌に心惹かれて、たどたどしい発音で何度も歌っていました。当時、私には肝心のサビの部分は全く意味がわかりませんでしたが、何か体制側の人々を批判する草の根活動家達の反骨精神が表われているようでカッコイイと思っていました。
 高校生になって、邦楽ポップスを聴くようになると、だんだんと洋楽オールディーズから遠ざかり、この歌もあまり聴かなくなりました。
 本当に久しぶりに、このCDをかけて、「風に吹かれて」を聴いていました。「それ」が起こったのはそのときでした。

 夜明け前の薄い暗い空の下、見渡す限り草原の丘の上に立って、
 涼しい風に当たっている、そんな感じ。
 体にまとわりついた汚れをサラサラにして吹き流していくような、そんな感じ。
 そんな風の中で、暗くぼんやりと色もなく虚ろな、人の形をして立っている自分の後ろ姿を眺めていました。その人の形をした自分の輪郭はジリジリと細かく放電しているような白くかすかな光に縁どられて、奥深い洞穴の入り口のようで、その空洞の中は暗くて何にも見えません。
 あぁ、「風」とはこれのことだったのか、そして、「風」の中に吹かれている「答え」とはこれのことだったのか、とこのとき初めて感じました。今まで、世界がうまくいっていないことを、自分が苦しんでいることを、全部周りのせいにしてきて、答えがどこかにある、誰かが持っているとばかり思っていたけど、実は答えはいつも自分の中にあるということだったのかと、理解しました。私はこれまで「なんとなくいいな」と思いながらも、素通りしてきた真実に気づき、自分の目は節穴だったのかと愕然としつつ、なぜか嬉しくて目から涙がこぼれました。本当に「答えは風の中」だった、と感じ入っていました。

◆ 妹からの電話

 その晩、外出先から家に戻った私は、留守中に上の妹のモミジからあった電話の伝言を聞きました。
 伝言によれば、実は父は肺ガン末期で、すでに心臓にも転移して、胸には水が溜まっている、余命はあと三、四日、長くても一ヶ月らしい、ということでした。
 4月に、末期ガンということはわかっていたようです。が、余計な心配をかけまいと父は今までモミジと私には黙っていたそうです。
 また「入院すると自由にできないから」と病院を飛び出し、別居先のアパートで暮らしていたそうです。
 病院を飛び出すのも、今まで黙っているのも、いかにも私の父らしい行動でした。

 父は酒も飲み、たばこも吸っていました。お酒は体質的に弱い方で、少しの酒ですぐに酔いつぶれていましたので、量はそれほど飲めなかったと思います。タバコは、筋金入りのヘビースモーカーでした。
 子供のころ、父の部屋はいつもタバコの煙でもやがかっていて、タバコ臭かったのを覚えています。家族からも、とりわけ祖母からは健康に良くないからと禁煙を口酸っぱく勧められていたのですが、長い間タバコはやめませんでした。
 父は若いときから自分でも「俺は肺ガンになるだろう」と宣言していました。しかし、定年退職まで毎年の健康診断では肺の異常は全く見られず、代わりに肥満傾向があるという注意があるだけでした。運動や食事の量は気をつけたものの、変な自信のようなものを持っていたせいか、タバコはなかなかやめませんでした。
 しかし、度重なるタバコ増税のおかげで、定年退職のタイミングで、経済的理由からついにタバコをやめました。
 退職から一年後、息苦しさを覚えて、病院で検査を受けたら、お腹に胸水が溜まっていて、末期の肺ガンであることがわかりました。
 肺ガン発覚当初、一旦、胸水を抜く手術をして、しばらく入院していましたが、延命治療は望まず、最後は自由に過ごしたいと、モルヒネ鎮痛剤だけをもらって病院から飛び出してしまいました。母やツグミの話によれば、このとき、病院食は味が薄くてまずいだの、看護師の気が利かないだの、とにかく不満ばかり言っていたそうです。
 退院後の父は、別居先のアパートで変わらず独りで暮らしていました。友人達と飲みに行ったり、何も知らされていないモミジ夫婦とスキューバ・ダイビングに行ったり、10月には高校の同級生達とタイ旅行に行ったりと、楽しんでいたようです。私が帰省の連絡をするために電話をかけたのは、ちょうどタイ旅行から帰ってきたころで、父の声には旅先での興奮が残っていました。
 私が帰省する直前の診察で、医者から「すぐにでも入院しないと危ない」と言われても、
「息子が帰ってくるのに入院なんかできるか!」
 と言って、父は変わらず頑固に入院を拒否したそうです。

 一方で、母とツグミは父のガン発覚を当初から知っていました。しかし、母はモミジや私にそれを黙っていましたし、ツグミにも黙らせていました。
 母は、自分の年離れた従弟が父親の訃報のあとアメリカで交通事故に遭って亡くなったことがあってから、遠く離れた人にその人の肉親の病気や死について連絡すると、その人が動揺して悪いことが起きるというジンクスを固く信じていました。
 ですから、父が亡くなったとしても、母はおそらく私に連絡しなかったでしょう。

◆ 私の焦り

 モミジからの知らせを聞いて、いろいろなことが頭をめぐりました。
 一番初めに思い浮かんだのは、「父もとうとう死ぬのか」という当たり前の実感でした。
 父方の祖母もまだ生きていて、父もまだ61歳でした。70代、80代の年配の方でも現役でバリバリ活動されていることが多い昨今、60代なりたての父が死ぬのはまだまだ先だと、どこか当然のように期待していました。その期待は突然ひっくり返ってしまいましたが、実際に起こってみると当然のことのように思えました。
 一方で、母の例のジンクスへのこだわりの強さを知っていた私は、まだ父が生きている間に、このことを聞くことができたことに感謝しました。私は、自分がとてもラッキーだ、ツイている、と感じました。

 それから、帰省予定を早めることを考えました。
 予約したチケットをキャンセルして、正規料金を支払って、翌朝便を予約しなおそうか、悩みました。
 そのとき、自分がとても動揺していると気づきました。脈がとても太く、体全身でドクドク鳴るのを感じていました。胸のあたりも締めつけられるようで、苦しく感じました。
 それに気づいたとき、「そんなに取り乱した状態では、何をやってもうまくいかない」と、思いました。「早く沖縄に着ければいいわけでもない、父さんが生きているうちに会えればいいわけでもない。自分の心が穏やかであること、これこそが何よりも大切なことだ」と。
 私は、独りその場に座って、目を閉じ、息を感じることから始めました。
 胸の高鳴り、動悸。それは、「急がなければ死に際に間に合わないかもしれない」という、私の不安と焦りの表れでした。
「苦しい、一刻も早くこのような状態を抜け出したい」という反応にも感じました。
 そういう状態に駆られている自分に気づき、駆り立てるような感覚を我慢強く観察し、感じ続けました。今にもその感覚に圧倒され、大波に飲みこまれそうな、そんな時間が続きました。
 それはやがて次第に弱まって、薄くなり、ついに消えました。
 その頃には、もう「間に合わないかもしれないから急がなければ」という焦りは消えていました。
 もちろん、絶対に間に合うとも思っていませんでした。ただ、これに関しては結果がどうなってもいいと、不確定な状態を受けとめられるようになっていました。
 そのとき、胸の中でもやもやしていた霧が晴れました。
 そして、その霧の向こうで輝いている「何か」が放つ光のようなものを見た気がしました。
 その瞬間、こんな考えが浮かびました。
「何が起きても、大丈夫。」
 そして、私はつぶやきました。
「とりあえず、明日の朝、母さんに電話をかけて事情を聞いてみよう。」

◆ 翌日の出来事

 翌朝、母に電話をかけると、態度は意外なものでした。
 母は、まず、遠くの人には身内の不幸を伝えないという彼女の信じるジンクスを話し、それから父の病気の経緯について話してくれました。しかし、父の病気に対する見解は、「お父さんが余命何カ月というのを気にし過ぎているだけでしょ。モミジがまともに受け取っただけで、まだそんなに弱っていないよ。」と、モミジと異なる見解を示しました。母方の祖父は八年前にガンで余命一年と宣告されてから、尚生きていたこともあって、母は医師の余命宣告をあまり深刻に捉えていませんでした。
 情報が錯綜していることに気づいたとき、これに振り回されずに、予定通りに帰ろうと決めました。

 朝、母との電話の後、私はボブ・ディランをまた聴いていました。
 そして、父に歌詞の意味を教えてもらい、何回も歌を練習していたころを思い出しました。
 思わず、涙が出てきて、胸に溢れるようなこらえられない感覚を覚えました。「とうとう父も死ぬのか」という事実を噛みしめていました。
 そして、父のために祈りました。
 このとき、自分の書いた作文「家族」の続きが見えてきた気がしました。
 私は、父のために息子の私ができることを穏やかな心でやろうと思いました。

 一方、その日、地元沖縄では、こんなことが起きていました。
 その夜、父の模合(もあい)仲間の友人が父にたまたま電話をかけました。
 模合というのは、沖縄で古くからある飲み会文化です。定期的に飲み会を開いて、会費を集め、そのお金をひとりずつ順番にメンバーが受け取って行く、そういう集まりです。一応、お金を積み立てていることになるのですが、そういう名目で仲間と楽しくお酒を飲みたいという、飲みの場が好きな沖縄の人向けの仕組みですね。私の世代でも続いていて、私の同級生達もやっていると話を聞きます。
 父は高校の同級生達と長年模合を続けていたのですが、この年、父はその模合幹事の一人でした。もう一人の幹事の方が、たまたま次の模合について父に電話したのです。
 その幹事の方は、電話越しに父の異変に気づいて、同じ模合のメンバーで友人の医師二人を連れて、父の別居先のアパートに駆けつけてくれました。父は、胸水がお腹にどんどん溜まり、全身がブクブクとむくんで、何も口にできず、それまでの一週間、水しか飲んでいなかったそうです。医師の友人達は余命幾日だった父を一目見て、重篤さを察しました。
 入院を頑なに拒んで、このまま孤独死するんだと言い張っていた父に、医師の友人がこう言って説得したそうです。
「ヨシヒト、お前はわざわざ苦しい下手な死に方しようとしている。人間、そう簡単には死ねない。どうせ死ぬのなら俺達が楽な死に方をさせてやる。」
 それから、その場で呼吸器疾患の専門病院に入院と緊急手術を手配して、父を半ば強制連行の形でタクシーに乗せて連れていき、入院させてくれました。
 翌朝、緊急手術が行われ、父は重篤状態から脱しました。父は、実は、いつ死んでもおかしくない状態だったのです。

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