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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーにおける能力主義との対決―ハイ・エボリューショナリーをぶっとばせ

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3は、MARVEL作品の中でも傑作の部類に入るのではないかと思う。僕の青春であるレディオヘッドがもはやノスタルジーを誘う古典として扱われていたことは感慨深いとともに少しショックではあったけれども、まあそれはいい。問題は、今回のヴィランであるハイ・エボリューショナリーがロケットに言い放った「お前は生物が完璧な進化に至るまでの通過点に過ぎない」という言葉だ。この思想とはきっちり対決しておかなければならない。

この映画の意味は、現代においてゾンビのように蘇りつつある優生思想、あるいは、人間の価値を同じ人間が一義的に決定づけようとする暴力的な力に対して、はみ出し者の集団であるガーディアンズが果敢に戦いを挑み、打ち負かしているところにある。

それはたとえば、成田悠輔のような日本を代表する知性(かっこわらい)たちが盛んに喧伝している集団自決の思想にも通ずるものである。実際に、この映画の中では、自らが実験の過程で生み出し、用済みになった文明を星ごと消滅させてしまうというシーンがあるが、これはまあ他人事ではないだろう。今の人類はそういうことをやり兼ねないというか、そうしたプロジェクトにすでに着手しているような気もする。

インテリジェント・デザインが現実味を持つ世界

生命科学やAIの発展によって、インテリジェント・デザインが現実味を持つ世界に我々は生きるようになっている。もしかしたらそのうち人間は宇宙そのものを創造することができるかもしれないとさえ言われ始めているこの世界において、知性はデザインできるのだという思想はすでに我々の目の前にある。

しかし、本当にそうだろうか?人間は自分自身を再創造し得るほどに賢いとは、僕には到底思えない。それらはとてもよくできてはいるけれども、人間そのものとは結局のところ似て非なるものでしかないのではないだろうか。そうした不完全さへの認識を前提に持っていることは、僕のような文系の人間が有しているべき一つの資質であると思う。『操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』でジェイミー・バートレットがしばしば憤慨しているように、テック企業の起業家や技術者たちはテクノロジーが世界にもたらす影響に対して病的なまでに楽天的であり、無責任なところがあるからである。

そうした傲慢ともいえるテクノロジーへの妄信が生み出した「悪」こそが、今回のヴィランであるハイ・エボリューショナリーなのだと思う。

能力主義の成れの果て―完璧な人間像からの逆算

僕がいる教育業界においては「教育改革」が盛んに叫ばれ、推進されているが、こうした改革の構想は、あまりにも完璧で現実には存在し得ない人間像を前提にしているとしばしば批判される。

たとえば文部科学省の資料から、これからの社会に求められる人材像を確認してみよう。おそらく途中で頭が痛くなってくると思うので、ざっと読み飛ばしていただいて構わない(このような感情を排した無機質な文章であれば、たしかにChatGPTで十分ではないかと思わされるのが皮肉なところである)。

Society5.0を牽引するための鍵は、技術革新や価値創造の源となる飛躍知を発見・創造する人材と、それらの成果と社会課題をつなげ、プラットフォームをはじめとした新たなビジネスを創造する人材であると考えられる。異分野をつなげることでエコシステムを創造するプラットフォーム・ビジネスの形態は、巨大な規模を持たなくとも、発想次第で新たな価値を創造することができる。このようなプラットフォームを創造できる人材には、異分野をつなげる力と新たな物事にチャレンジするアントレプレナーシップが欠かせない。また、課題解決を指向するエンジニアリング、デザイン的発想に加えて、真理や美の追究を指向するサイエンス、アート的発想の両方を併せ持つ必要がある。これらの資質・能力に加えて、多くの人を巻き込み引っ張っていくための社会的スキルとリーダーシップが不可欠となろう。新たな価値を創造するリーダーであればこそ、他者を思いやり、多様性を尊重し、持続可能な社会を志向する倫理観、価値観が一層重要となる。

Society 5.0 に向けた人材育成~ 社会が変わる、学びが変わる ~
平成30年6月5日:Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会
新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース

後慣習的な段階に到達することができるのは全人口の数%に過ぎないという発達理論の研究を踏まえるならば、ここに書かれていることは多くの人にとっては全く縁のない知性であり、こんな官僚的な発想によってそうした知性が育まれるなどとは到底思えない。にもかかわらず、我々教育関係者はこうした官僚的作文が生み出す虚構と真面目に向かい合い、日々仕事をしている。

しかし、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。フレーベルが『人間の教育』のなかで書いているように、我々のなかには、すでに神的なものが息づいているのであり、我々はその神的な働きを通してのみ、自らの完全性に至ることができる。人間は、その本性として、神的なものをつねに、すでに志向しているのである。

一方、大人によって恣意的に定められた教育のアジェンダは、時として人間が成長することの神秘的な側面をそぎ落とす。測定可能性の認められるものだけを有意義な活動として拾い上げ、他を捨て去ることによって教育の可能性をかえって狭めている。そんなことをするくらいなら、自然に教育を委ねた方がはるかにましであると考える人たちが存在する。こうした考え方は伝統的に「自然主義」と呼ばれてきた。

我々は、自然主義的な発想に今一度立ち返るべきではないかと思う。しかし、現代社会は、自然に反して、人間の成長を人為的に作り出そうとすることに余念がない。そうして子どもは成長を急がされ、社会にとって有用な存在となるように前倒しで様々なことを教え込まれるのである。ちょうど、ハイ・エボリューショナリーが、生物が進化に要する長大な時間の流れをスキップして、一瞬にして進化の先端に立つ生物を作り出そうとしたのと同じように。

はみ出し者 VS 完璧主義者-ハイ・エボリューショナリーをぶっとばす

さて、こうした意識の高さから最もかけ離れたところにいるのが、我らがガーディアンズ・オブ・ギャラクシーである。

彼らはつねに互いを汚い言葉で罵っている。

他人の欠点に腹を立てているという点において、彼らは一見ハイ・エボリューショナリーと同じ不寛容さを内在しているように見える。しかし、ガーディアンズは決して仲間を排斥するようなことはしない。ガーディアンズとは一種の家族のような存在であり、そうした私的なつながりにおいては他者の欠点は一緒にいないことの理由にはならないからである。それはむしろ、彼らにとっては決別というよりは連帯の根拠となる。

彼らが相手を罵倒するのは、第一には、彼らが仲間をほとんど自分と区別のつかないほど近しい存在として認識しているからであり、第二にはそもそも彼らは能力主義に囚われてはいないからである。

マンティスがネビュラに頭が悪いと罵られるドラックスを庇って「バカで何が悪いの?」と「バカ」を連発してドラックスに「全然フォローされてる気がしない」と言われるコメディーシーンがあるが、これなどはまさにハイ・エボリューショナリー的な能力主義に対する強烈なカウンターであるといえるだろう。

だから、彼らは仲間が窮地に陥っているときには当然のように助け合う。時には自分の命を危険に晒してまで。ここで提示されているのは、能力主義に対する社会的連帯の優位である。

ハイ・エボリューショナリーは、理性的な人間をつくり出せば世界は平和になると想定していたが、彼が見逃していたのはあまりにもその思想が個人主義に寄っていたことである。

必要なのは、弱さを認め合い、補い合いながら連帯することであり、ハイ・エボリューショナリーのように弱さを認めないことではない。最終的に、彼はガモーラによってマスクをはぎ取られ、その醜い素顔を晒すことになるが、あのシーンで描かれたガモーラとハイ・エボリューショナリーの対比は非常に印象的であった。ガモーラは家族的な仲間意識の内に自己を見い出し、ハイ・エボリューショナリーは偽りの普遍主義に内在する個人の腐敗(トッド・マガウアン)へと沈んでいくからである。

この映画を観て僕が感じたことは、我々はもっとこうした私的なつながりにおける人間の関係を取り戻すべきなのかもしれないということだ。そこには、一元的な価値に還元されることのない人間のありのままの姿がある。僕たちは、そうした「ありのまま」をもっと大切にしていくべきではないだろうか。

物語の最後で、ガーディアンズのメンバーはそれぞれが自分の道を歩むことを選択する。あれだけドラックスをバカと罵っていたネビュラは、子どもたちに優しく接する彼を見て「はじめて本当のあんたを見た」と最後に彼を肯定する。自分自身でさえ気がついていなかったその人の本性を、ガーディアンズの仲間は決して見逃してはいなかったのだ。こうして互いに互いの背中を押し、オーセンティックな自己として生きることを承認し合うことでこの作品は幕を閉じるのである。

その他、とても興味深かったのは、ハイ・エボリューショナリーが芸術を一段下に見ているような発言をしたことである(「地球は哲学や音楽や芸術では宇宙一だろう」といったような)。対してガーディアンズの戦いは、つねに地球の懐かしいポップミュージックと共にある。ここでは合理性に対する芸術の優位という主題も見え隠れするが、ここでそれを語るにはあまりにもふろしきを広げ過ぎだろう。いずれにしても、たくさんのユーモアと共にこれだけの考える材料を提供してくれている今作に、拍手を送りたいと思う。エンターテインメントとはかくあるべきだろう。

(参考文献)
・フリードリヒ・フレーベル(1964)『人間の教育』岩波書店
・ジェイミー・バートレット(2020)『操られる民主主義: デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』草思社
・トッド・マガウアン(2017)『クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論』フィルムアート社


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