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君たちはどう生きるか。そして、私たちはどう生きるのか。

ほとんど何の前情報もないまま映画を観ることになるというのは興味深い経験だった。開演と同時に、私は全く予期していなかった空間に唐突に投げ出される。ここはどこで、いつの時代なのだろう?自分が没入しているこの物語世界の実態を、あるいは、その世界に対する観察者としての私自身の立ち位置を、はじめのうちはなかなかうまく掴むことができない。

それはかつてプルーストが書いた「眠りから徐々に目覚めつつある時の意識の状態」に似ている。私は誰なのか。私が眠ることによって一時中断し、覚醒と共に再び戻ってこようとしているこの世界とは、一体どこであったのか。眠りから目覚めつつある意識の状態において、人はこの世界における「私」の位置を、存在の実感を、繰り返し確認することになるのである。

夜のただなかに目覚めたとき、自分がどこにいるのかわからないので、最初の一瞬、私には自分がだれなのかさえわからない。私は、動物の内部にも微かに揺らめいている存在感をごく原初の単純なかたちで感じるだけで、穴居時代の人よりも無一物である。しかしそのとき想い出が――私が実際にいる場所の想い出ではなく、私がかつて住んだことがあり、そこにいる可能性があるいくつかの場所の想い出が――まるで天の救いのようにやって来て、ひとりでは脱出できない虚無から私を救い出してくれるのだ。かくして私は、何世紀にもわたる文明の歴史を一瞬のうちに飛びこえるのだが、すると、ぼんやりとかいま見た石油ランプや、つぎにあらわれた折り襟のシャツなどのイメージが、すこしずつ私の自我に固有の特徴を再構成してくれるのである。

プルースト『失われた時を求めて』1 スワン家のほうへ 岩波文庫 吉川一義訳,p29-30

この「突然投げ込まれた物語の世界に馴染んでいくこと」と「眠りから覚醒した人が世界における自分自身の位置を改めて確認すること」の類似点は、全く前情報なくこの映画を観たときの私の素朴な感想に過ぎない。

しかし、よくよくこの映画を振り返ってみると、それは単に偶然的に抱いた感想であるとも思えなくなってくる。というのも、『君たちはどう生きるか』という作品は、主人公の眞人が異なる次元の「現実」のなかで都度目覚めることによって、自分自身の存在を確認していく物語であるからである。

物語のなかで人は目覚める

何の前情報もなしに、とは言っても、ネタバレを含まない感想はちらほらと耳にしてはいた。「難しくてよくわからなかった」という感想が多かったように思う。しかし、この作品は特にわかろうとする必要はないように私は思う。

この作品は、私たちが生きているこの三次元の世界とは別のリアリティ――覚醒した意識によっては決して知覚することも意味づけることもできないはずの世界を表現しているからである。

「夢を見ない深い眠りの中に存在しないものはリアルなものではない」

インドの聖人、ラマナ・マハリシはかつてこう言った。

ケン・ウィルバーは彼のこの言葉をしばしば引用し、次のように問う。「夢を見ていない深い眠りにおいてあなたはどこにいるのか?」と。ここで示唆されていることは、私たちは、目覚めているときとは別の意識の状態において異なる世界を生きているということである。そう、たとえば死の世界のような。

村上春樹の『かえるくん、東京を救う』や新海誠の『君の名は』に代表されるように、覚醒時に私たちが経験している世界とは別のリアリティを描いている作品というものがある。それはまるで、夢を見ていない深い眠りにおいて私たちが住処としているもう一つの世界のようである。彼らが実際にその世界を見たことがあるのかどうか、それはわからない。その表現の主体であるはずの作者本人にさえ、わけがわからないものであるかもしれないのだ(ちょうど村上春樹が、自分は地下二階から流れてくるものを書いているのだ、と主張しているように)。したがって、こうした作品を覚醒時の理性的な眼で鑑賞しようとしてもうまくいかないだろう。

宮崎駿の今作も、そうした種類の作品であると思う。

私たちは、覚醒した意識において経験されているこの世界が、意識下の重層的なリアリティに支えられて成立しているのだという可能性をここで感じることができさえすればいい。私の意識が作品を理解できなくても、無意識のレベルで響き合う部分がありさえすればよいのだ。

生と死の関係を捉え直す

意識下の重層的なリアリティ。そう私は書いたが、その言葉は一体何を意味しているのだろう。たとえば『君たちはどう生きるか』では、生と死が重層的な構造のもとに位置付けられている。

これは私たちの通俗的な感覚とは相容れないものである。

普通、私たちは生と死を、直線状に並ぶ前後の位置関係において捉えている。ある時、この世に生を享け、束の間の喜びと苦しみを経験して、私たちは死と定義される状態のなかに入っていく。生まれ、生き、死ぬ。この順序。


しかし、生と死の位置関係については異なる考え方も存在する。その考え方とは次のようなものである。

私たちが経験しているこの一瞬一瞬は、私たちが繰り返し死に、新しく生まれ直すプロセスである。

つまり、生の向こう側に死があるのではない。生と死は、ちょうどコインの裏表のように、同時にいま・ここに存在している。


こうした考え方は、実はそれほど特異なものではない。たとえば真木悠介は、かつて人が為したことは消え去っていくのではなく蓄積されていくと考えるホピ族の時間感覚について次のように述べている。

このことは一般にホピの言語で、過去が現在と区別されないという事実と照応している。昨日あって今日ないことはSAEの文化では「ないこと」に入るが、ホピの文化では「あること」に入る。すなわち以前の日にあったことは、同じ日の再現である今日の日のなかに刻み込まれて蓄積している。過去は帰無することなしに現在しつづける。

真木悠介『時間の比較社会学』岩波現代文庫,p17 

こうした考え方によれば、かつて生きていた人は、死と共にこの世界から完全に姿を消してしまうのではない。彼らの存在は、かつて彼らが生きていた風景のなかに溶け込み、子孫たちはその存在を風景から読み取りながら自らの生を営む。

ここまでくれば、宮崎駿の表現しているものとかなり近接してくるように思われる。アオサギが眞人に「あなたの母君はまだ生きている」というのも、その意味においてはあながち嘘とも言い切れないのである。

通常、我々は自らの生の側面のみに目を向けているので、自身がすでに潜在的な形で死を生きていることに無自覚である。しかし、すでに生きることに対し関心を失ってしまっているような状態においては、人はしばしば死の世界に属する物事の方に親しみを覚える。眞人や夏子は、まさにそのような人物であるがゆえに、死の世界に抵抗なく入っていくことができたのである。死の側から再び自身の生を意味づけるために、彼らはどうしてもそうしなければならなかった(余談だが、村上春樹の新作である『街と、その不確かな壁』の主人公も同じ性質を持っていると思う。その性質ゆえに、彼は壁の中の街に入り、死者と交流することができたのである)。

宮崎駿が今作で表現したのは、この生と死の並列的な関係である。この作品においては、眞人の生を死の世界が支え続けているのであり、そのことは人間の救済の可能性を示唆している。死の世界は虚無ではなく、人間の空間を支え続ける現実的な力の場なのである。この映画を観ながら、私は実際にこの世界がそのようなものであったらどんなに救われるだろう、と心から思った。

「一度あった事は忘れないものさ。思い出せないだけで」

私たちはそう意識しないだけで、この死の世界につねに身を置いているものなのかもしれない。私たちが夢のない深い眠りによって外界に対する意識の働きを停止させるとき、意識は別の次元の世界――死の世界を認識しているかもしれない。いずれにせよ確かなことは、私たちは眠りから目覚めると、そのことをきれいさっぱり忘れてしまうということである。

けれども、それは忘れてしまっているだけで「なかった」ことにはならない。そこで経験したことは、私たちの生に知らず知らずのうちに多大な影響を及ぼしているかもしれない。

この点に関連して、藤本タツキがジブリについて語ったインタビューで『千と千尋の神隠し』に対する興味深い指摘がなされている。

 千尋っていうか弱い女の子が、両親から離れて、異世界でいろんな人と出会って、仕事をして、明らかに後半では人間的成長をしていると思うんです。最初はすごい高い階段から恐る恐る下りてたのに、後半はもうスタスタスタって感じだったし。ハクを助けるためにがんばるのも、最初の千尋からするとすごい成長ですよね。
 観てる僕らも、そんな成長した千尋を見て「すごくいろんなことがあったな」と思うわけじゃないですか。でも、最後に千尋が現実世界に帰るとき、またトンネルの暗さを怖がって親に抱きつくんですよ。そこで「あれっ?」と思って。「千尋はこの映画で起こったことを全部忘れちゃうのかな……」って、すごく悲しかったんですよ。
 でも、きっとそんなことはなくて。銭婆が「一度あった事は忘れないものさ。思い出せないだけで」って言ってましたけど、本当にそう。
 あれって僕は「手癖」の話だと思ってるんです。手癖とか、息の仕方とか、歩き方とか、自転車の乗り方とかって、最初にどうやったのか覚えてないじゃないですか。

【藤本タツキ1万字インタビュー】漫画家・藤本タツキが語るジブリ作品の魅力とは。満席の映画館で『千と千尋』を立ち見した「原体験」から宮﨑駿監督への想いまで
https://shueisha.online/entertainment/146972

『君たちはどう生きるか』においても、現実の世界に戻ってきた眞人があちら側の世界での出来事をまだ覚えていたことに対し、アオサギが「忘れちまった方がいいんだ。そういうことは」と答える。

私たちの存在の意味は、すでに忘れてしまい、無意識化されてしまった物事にその多くを負っている。忘れてしまったことはある意味で、自らに血肉化されたことであるのかもしれない。そういう意識の外にある物事に我々の存在は支えられているということ。すでに過ぎ去った存在や忘れてしまった物事は「もう存在しない」のではない。それは私たちの生の意味の供給源として、つねに・すでに私たちと共に現在しつづける。

思い出せなくてもいい

「人が本当に死ぬのは人に忘れられたときだ」という言葉がある。

個体の死は記憶によって生き永らえるというこの考え方は、しかし、直線的に進む時間の中では一時の延命に過ぎず、結局は時の流れと共に忘却へと沈んでいくことになるという意味で、人間の虚無を支え切ることができないという限界を持っている。これに対して「思い出せなくてもいい」という考え方は、人間の生は人間の認知できるものよりももっと広く、大きなものによって支えられているということ、もっと踏み込んで言えば、生は死によってさえも支えられ得ることをまなざしているといえるだろう。そうした意味において、「思い出せなくてもいい」というのは、一つの救済であろう。

そして、私たちはどう生きるのか

宮崎駿の今作について、「引退宣言をしておきながらその言葉に責任を持てない人間の作品など、私は観るつもりはない」と言っている人がいた。

一体何を言っているのだろう。

一度引退宣言をして、それからこのようなすばらしい作品をつくった。82歳の宮崎駿が、である。私はその事実にただただ感動した。宮崎駿の引退宣言の撤回は決して軽蔑するべきものなのではなく、彼の偉大さを示すものであるとさえ私は思う。それでも何かをつくりたいと思うこと、そのやむにやまれぬ創作意欲こそが、表現者にとって何よりも貴いものであるはずだからである。

実際、『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿という一人の人間が構築した内的世界がそのまま表現されていたという点において、芸術的な価値を持つ作品であるといえるだろう。宮崎駿は死者の世界を生きることによって繰り返し新しく生まれ直している。そして、それを観た私たちはそこに表現された巨大な人格を前にしてこう思うのである。「そして、私たちはどう生きるのか」と。


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