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「20代で生まれた差は一生取り返せない」という言説のどこに欺瞞があるのか

読書猿さんのこちらのポストに対してXで言及したのだが、Xにそぐわない長文投稿となってしまったので、こちらに記事としてまとめておこうと思う。

確かに最近「勝負は20代」という言説が増えてきたような気がする。少し調べてみただけでも、「20代で将来の成功が決まる」系の本がいくつか見つかった。この記事のトップ画像に入れているものがその一例だけど、これらは読んでいないのでこの記事内での直接の批判対象にはなるわけではない。

とはいえ、どれもなかなか強烈な煽り文句である。

まあ実際、20代をどう過ごしたかということが後の人生に大きな影響を及ぼすことは間違いないだろう。ただし、読書猿さんも指摘しているように、こうした言説は特定の生き方を「正解」としそれ以外の可能性を排除してしまうという点において非常に問題がある。

たとえば、メグ・ジェイ『人生は20代で決まる』のアマゾンのページをみてみよう。そこには、こういう宣伝文句がある。

くり返すが、この本は読んだわけではないので、本の中身の良し悪しまでは僕にはわからない。でも、この宣伝文句にある「ほぼすべて」に入らない人たちのなかに、どれだけの多様な生のあり方があるだろう。統計的な手法は、いつでもマジョリティに入らない多様な生き方を見えなくさせてしまう。

たとえば、統計的には「女性は自分より学歴・年収の低い男性とは結婚しない」とか「近年では歳の差婚はあまり見られない」とかいったことが言われているのを僕も目にしたことがある。

実際には女性の方が学歴・年収が高いケースや歳の差婚は存在するし、僕の周りにもそれでうまくいっている家庭はいくつかある。しかし、統計的に「少ない」という認識が一般に普及すると、いつしか「少ない」が「良くない」にすり替えられてしまうということがあるのではないか。

事実、学歴・年収が低い男性は結婚の資格がないとか言って叩いたり、歳の差カップルを何も知らない外野があたかもそれが不自然で良くないことであるかのように批判したりしているのをXなどでよく見かけることがある。そうなると、そうした組み合わせの愛情関係があらかじめ回避されるようになり、ますます夫婦のあり方が画一化していくということが起こるのではないだろうか。

デートでサイゼに行くのはあり得ないとかいう話もそうだろう。実際にはサイゼデートを楽しむカップルは確実に存在する(たとえばつい先日も「ねえ、この後ガスト行く?サイゼにする?」と楽しそうに相談している花火大会帰りのカップルをみて、僕はそれをとても微笑ましく思った)のに、多くの人が「それはほとんどあり得ない」と口にするようになると、何となくそれが良くないことであるように思うのだ。

そんなこと個人の勝手だろう、という話である。

こうした特定のあり方によくわからない「善悪」の基準を持ち込みそれを実体化していくことは、現実を説明するのではなく、予言が現実をつくる力を持つという意味で「自己成就的」である。

「20代で生まれた差は一生取り返せない」という言説も同様で、それが広がると20代でたいした職業経験を積んでいない人は採用を控えようとなり、ますます20代で人生の勝負をつけなくてはならない社会になるという「自己成就的予言」として機能することが懸念される。

要するに、特定の生き方を「正解」として語るあり方は人間の自由や可能性を制限する力となり得るのである。

少し脇道に逸れたが、僕がこうした言説が広がることに強い危惧を持つのは、それが道徳化することで人々の生き方を縛ったり、そこから逸れた道を選ぶ人を非難するようになるからだというが、ここで言いたかったことである。

そこで僕が思い浮かべたのは、僕が好きな作家たちのことである。

20代のうちに自己啓発しないと取り返しがつかないのではない、自己啓発の思想とノウハウが通用するのが20代までなのだ

僕の尊敬する作家の何人かは30代後半で最初の作品を書いているが、彼らは20代の時には周りから差をつけられたように見えたかもしれない。

「20代で生まれた差は一生取り返せない」という言説が問題なのは、こうしたケースをうまく扱えないことだ。

その分野で必要な成熟が見え始める年齢は分野や人によって様々だし、インスタントな成長に頼り過ぎて30手前で成長が止まるケースもよく見る。たとえばそれはまさに「20代で生まれた差は一生取り返せない」という煽りの先に若者たちに用意される自己啓発的な学びに20代の若者がハマるケースである。

むしろ、20代のうちにできることなどたかが知れていることを理解して人生を長距離走として捉え自分のペースで走り続けられる人の方が最終的には遠くに行けるだろう。

さらにいえば、自己啓発的な言葉に騙されて他者の基準でしか生きられないことの方が、自律性が求められる30代以降の人生にはリスクである。

また、こうした自己啓発的な言葉は、人はいつでも変わりうるという信念(この信念はあらゆる年齢の人の成長を助ける効果を持つ)を破壊する点で二重に罪深い。

要するにあまりにも人生というものの捉え方が浅く粗雑なのだ。

それでも自己啓発が厄介なのは、20代で求められる程度の成果を出すだけだったら割と役に立ってしまうところだ。自己啓発にハマるくらい他者の基準に依存し思考停止でがむしゃらに動ける人の方が成果を出せてしまうこともある。でも、30代以降はむしろその思考停止が足枷になる。この副作用がとても大きいのだ。

僕の勤務している会社も、自己啓発的に社員を鼓舞することで成果を出そうとする傾向が少なからずある。けれども、それは20代で大きな成果を出すことに最適化された方法で、30代以降の成長には弊害が大きいと思うといつもマネージャー陣には伝えている(そうした遠慮のないフィードバックを上司にしても受け止めてくれる懐の広い会社であることは一応書いておきたい)。今までいろんな人を見てきたけれど、そのやり方に過剰適応した若手はだいたい30で限界が来るように思う。

自己啓発的な意識の高さは一見正しく誰も否定しづらいような道徳的なにおいをまとっているので、それがまた厄介でもある。たとえば他責と自責。ちょうどこんなポストが目に留まった。

もちろん左の他責は問題で右の自責の方がいいのだが、この二項対立に囚われて自責自責言ってる人はプレイヤーとしては優秀だけどマネージャーでもまだ言ってたら問題があるといえるのではないだろうか。事業の推進、変革は環境のマネジメントも含むので、個人への帰責モデルが意味を持たない世界になるからである(しかし、そうしたことを指摘する人はあまりいないようにも思える。おそらく道徳を否定しているような気分になるからだろう)。

自責思考は与えられた目標をハイ達成させるための洗脳の言葉としては効果的なのだが、次の段階への成長、すなわち組織や環境に働きかけるシステム的な思考の段階に進む際にこの自責思考がめちゃくちゃ邪魔をするのである。課題のレベルごとに思考モデルが異なることを意識できないとこの罠にハマる。

また、組織の変革に関わる際にはこの画像で他責思考に分類されている「〇〇のせい」「自分は悪くない」「〇〇だから出来ない」という発想は必ずしも悪いものではなくなる。「自分以外の何かのせいにする」ということを、個人への帰責モデルに囚われずに肯定的に考えることができるようになるのである。だから、組織や環境のなかで何が悪さをしているのかを客観的に考えることが求められる場面ではむしろ自責思考は邪魔なのだ。

こう考えてくると、20代の若者にあれこれと生き方を説くような教育的関わりは、長い目でみると有害な部分が多いのではないかと思えてくる。

僕はこうした通俗道徳的なものや自己啓発的なものがもう生理的に受け付けない身体になってしまったので、それがなぜ毒なのかということをしょっちゅうこうして説明していて、そうしてこの長文駄文が出来上がったわけだが、割と反響もいただいたのでnoteにもまとめておこうと思った次第である。

再び遅咲きの作家の話と、どのような成長の「メタファー」を採用すべきか

30代後半で最初の作品を書いた作家たちの話に戻ろう。
では彼らは20代の頃何をしていたのか?
彼らは世界を愛し人生を謳歌していた!

たとえば辻邦生。

彼は32歳のときに夫婦でフランスに遊学したが、佐保子夫人がフランス政府給費留学生として給付を受けて飛行機で渡仏したのに対し、辻邦生はまだ何者でもなくお金もなかったので船旅を強いられ佐保子夫人より遅れてフランスに到着したという僕がとても好きな話がある。しかし、辻がその船中で知り合ったという加賀乙彦の話によると、その船旅は随分たのしくドラマチックなものであったらしい。

そして辻は遊学中に訪れたギリシャのパルテノン神殿で啓示を受け、それを契機として最初の作品を書く。正確に言えば、辻は20歳のときにも『遠い園生』という作品を書いていたのだが、それから15年ほど書くことができない状態に陥っていたのだ。彼が再び書くことができるためには、啓示が訪れるまで世界と対話し続ける必要があった。

「20代で生まれた差は一生取り返せない」という発言を見て僕がこの「遅咲き」の作家の話をはじめたのは、発達理論の界隈で言われているところの次のようなメタファーが念頭にあったからだ。それは「ビル」のメタファーである。

このメタファーで成長を捉えることが意味しているのは「成長を急がせることは土台をしっかりとつくることなく高層ビルを建てるのにも似た不安定さを抱え込むことになる」というものである。

それゆえ、成人発達理論では、特定の領域のスキルだけを一点突破で過剰に伸ばし続けようとする垂直的なアプローチではなく、世界が与えてくれる様々な機会や出会いをとことん満喫すること、もっと簡単にいえばいろいろなことを経験するという水平的なアプローチを推奨する。

自己啓発的な人たちは前者の「高さ」を目指す垂直アプローチをすぐに吹き込もうとするので困ったものなのである。「ワークライフバランスなんて気にするな、死ぬ気でやれ」とか「圧倒的に努力し成長しろ」とか彼らはすぐに言うわけだ。でも、これをやると開発される能力の幅が狭すぎて、他の能力が未発達であることに足をすくわれることがほとんどだろう。たとえば若くして大金を稼いだインフルエンサーが人間関係でトラブルを起こして没落していくのが一つの典型的なパターンになっているのは、だいたいにおいて、この「非同期な発達」が深刻化しすぎて倫理的な能力の弱点をつかれたことに起因しているといえるだろう。

僕の尊敬する作家である辻邦生や池澤夏樹は、とにかく若いころはぶらぶらしていた。でも、そこで様々なものと出会い、それらと真剣に向き合うことによって、彼らはこの世界というものが、人生というものがいかなるものなのかということについて独自の見解を築いていたし、そのことが彼らに人間的な「幅」を与えたのだと思う。この土台の上に高度な諸能力が築かれて、はじめて人格的に大きな器が形成されるのだ。

そしてもうひとつ、発達理論の界隈で使われている成長のメタファーがある。今度は高層ビルではなく「木」のメタファーである。すなわち「木を高くすることにばかり気を取られるな。それもまた土台が不安定な成長しか実現しない。深く根を張ることに取り組みなさい」というものだ。

これは『人が成長するとは、どういうことか』の著者である鈴木規夫さんが教えてくれたメタファーだが、要するに、同じ垂直方向でも、上へ上へと行こうとするのではなく、上に行きたかったらまずはしなやかでもあり強固でもあるような深い根を張りなさい、ということである。

地中に根が複雑に張り巡らされるほど様々なところから栄養を吸収することができるわけで、これも先ほどの「ビル」のメタファーに通ずるところがあるが、このメタファーを用いることのメリットは、垂直的な成長を深層的な方面へ伸びるものとして記述している点、根っこのイメージが複雑に張り巡らされたネットワークの束として個人の能力を全人格的に捉えようとする発想と親和的であるところだろう。

そして、この深層への発達・・・おそらくこれこそが辻に啓示の経験をもたらしたものなのだ。

20代のうちに差をつけろ?それもいいかもしれない。
でもその前に、少し立ち止まって空を見上げ、星を眺めてみてはいかがだろうか?

僕はやはり、そうしたあり方を20代の人たちには提案していきたい。

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