鬼滅の刃「刀鍛冶の里編」に見る公共哲学とエリートたちの捻じ曲がった性根
原作を読んだときには、「刀鍛冶の里編」はあまり印象には残らなかった。出てくる鬼もあまり深みがないように思われたし、登場する二人の柱も、玄弥の存在も、そう描かれることにどのような必然性があるのかがいまいち掴めなかったのである。
ただ、今回アニメで改めて見直してみて、僕のなかでその評価は覆ることになった。アニメの制作陣の原作に対する深い解釈が、より効果的に作品の主題を浮き彫りにするような物語の再構成を可能にしていたからである。
吾峠先生がくり返しこの作品の中で表現している価値観。それは、強き者の責任と、利己的な能力主義に対する社会的連帯の優位である。
たとえば「無限列車編」の煉獄母の次の言葉。
煉獄さんはこの母の言葉を胸に抱いて死んでゆくことになるが、その志は主人公の炭治郎に引き継がれることになる。
「弱者への恐怖」という倒錯
炭治郎は、普段は限りなく優しい人物だ。そのナイスガイぶりは、ニューヨーク・ヤンキース時代の松井秀喜に勝るとも劣らないほどである。しかし、そんな彼が怒りを露わにする場面が度々ある。それは決まって弱者が虐げられたときである。
たとえば、「刀鍛冶の里編」で鬼殺隊が戦うことになる上弦の肆・半天狗(憎珀天)。彼はこれまで多くの人間を喰い物にしておきながら、自らを斬ろうとする炭治郎たちを「弱き者をいたぶる極悪人」であると言って非難する。
憎珀天のこの言葉に対し、炭治郎は怒りを燃やしこう答える。
かつてケン・ウィルバーは、深い慈悲はしばしば激しい怒りの表現を取ると言ったが、炭治郎の怒りはまさにそれである。普段は優しい炭治郎であるだけに、マジ切れしているときの彼は本当に怖いというか、容赦がない。「捻じ曲がった性根」という罵り文句、日常でなかなか言う機会ないですよね。気に入ったので僕も今後積極的に使っていきたい。
しかしながら、現実の世界にも、この「捻じ曲がった性根」としか表現しようのない考えを持つ人たちは至るところに存在する。憎珀天のように、搾取する強者でありながら弱者に虐げられていると主張する「捻じ曲がった性根」を持つ者たちが。たとえば、大王製紙前会長・井川意高氏の以下のツイートを見てみよう(直接ツイートを埋め込もうとしたら凍結されていた)
似たような趣旨の発言を富裕層がしばしば口にするのを最近は本当によく見かける。最近は、林修氏がテレビ番組で、山本一郎氏の「低所得者は社会のお荷物。日本から出ていけばいい」という主張を引用していたことが話題になった(林氏はこの主張に必ずしも賛成しているわけではないと後に補足を加えている。とはいえ強く否定しているわけでもないというのがどうかと思うが)。
あとこれとかね。
彼らのこの被害者意識。まさに捻じ曲がった性根である。
彼らに共通して見られる倒錯的な傾向については、ドン・マッツ氏が芦名氏の「弱い人よりも、強い人を助けたい」発言への応答として述べた次の指摘が的を得ていると思う。
そう、自分たちは強者であると言いながら、同時に弱者を恐怖しているように見えること。それが彼ら「自称強者」にみられる倒錯である。強いはずの者が弱い者にいたぶられていると主張することは明らかに矛盾であろう。
弱者恐怖、あるいは弱者憎悪に陥っている人たちは、公共哲学の以下の議論に少しは目を向けた方がよいのではないかと思う。彼らにはあまりにも公的な正義に対する認識が欠如しているように思われるからだ。
炭治郎のすばらしいところは、こうした「不正義」や「不公正」に加担する者に対しきちんと怒ることができるところだ。その意味で、彼は公共哲学的な「正義」の体現者であるということができる。公共哲学などという難しい議論を参照せずとも、その発想は彼のなかに「常識」として生きているのである。このように炭治郎が自然な形で示している「良識」こそが、この作品が今の時代に評価されていることの一つの理由なのではないかと思う。そのような良識を持った人物が脚光を浴びるということが、今の社会では極めて稀なことになってしまっているからである。
世界は誰かの仕事でできている
そしてもう一つ言っておかねばならないのは、彼らはより多くの税金を払うことで弱者を支えていると主張しているが、実際には労働者の上前をはねているだけであり、社会の寄生者として足を引っ張っているのは庶民ではなくお前らだろという点である。そもそも、彼らの生活自体も社会インフラを低賃金で支えるエッセンシャルワーカーの働きに依存しているのであって、そこへの感謝がないというのはどうなのか。これこそまさに「鬼畜の所業」だろう。
この点については、僕は以下の見解に完全に同意である。
ここで我々は、またもや公共哲学的な議論にいつのまにか足を突っ込んでいる。上のさしみさんのツイートは「この世界は多種多様な人々の仕事によって成り立っている」という当たり前の事実を指摘しており、極めて良識的である。
この論点も、吾峠先生は刀鍛冶編でしっかりと扱っている。時透無一郎の作中での成長を描くことを通じて。覚醒前の無一郎は、己の剣の才能のみを恃みにして、彼の仕事に対する刀鍛冶の貢献をかなり低く見積もっている。
これは、近年至るところで耳にするようになった、高所得者を崇め低所得のエッセンシャルワーカーを軽視する言説そのものである。「生産性」という尺度においてあなたがたは価値が低いのだから、富の生産に最も貢献している我々に感謝すべきだ、と臆面もなく主張する愚か者の言説である。
覚醒前無一郎はなかなかのクソ野郎なのだが、ここには死に別れた兄の有一郎が生前に口にしていた言葉が影響している(覚醒前無一郎は記憶喪失によって兄の存在を忘れてしまっているので、この影響は彼にとって無意識化されている)。
有一郎のこの言葉は、いまや人を助ける側となった無一郎のなかに歪んだ特権意識を形成することになる。人を助けられるのは優れた力を持った個人であるという意識を。このことは、裏を返せば助ける者と助けられる者の非対称性――弱者はつねに強者に助けられているという認識を表すものである。
これに対しても、炭治郎は極めて真っ当に怒りを表明している。
この後、無一郎は上弦の伍の玉壺と戦うことになるが、このように自分一人の才能のみを恃みにしている限り、無一郎に勝ち目はない。
窮地に陥った無一郎は、自分を助けようとする小鉄少年に次のように呼びかける。
ここで無一郎は思い出す。彼の父が炭治郎と同じようにこう語っていたことを。
この言葉と、小鉄少年による決死の救出によって、無一郎は本来の自分を取り戻す。そして、彼の刀を作ってくれた刀鍛冶に感謝の言葉を述べるのである。
個人の能力に対する社会的連帯の優位。これは鬼滅の刃という作品に一貫して流れているテーマだろう。主人公のチートな能力によってすべてが解決、といったような少年漫画にありがちなお気楽な結末をこの作品は拒絶している。この作品を支えているのは、むしろ、社会を構成している一人ひとりの人生に想いを馳せる想像力であるといえるだろう。それゆえ、この作品はモブキャラにさえ一つの人生を読み取り愛着を感じられるようなつくりになっている。
最後に無一郎が斬ることになるのは、自分よりも能力の低い者を「いてもいなくても変わらないようなつまらねぇ命」「貴様ら百人の命より私の方が価値がある」と罵る鬼どもである。そしてそこで斬り捨てられるのは、自分を取り戻す前の無一郎自身の姿でもある(ここまでの物語の流れは、本当によくできている)。
刀鍛冶編の最終話は、原作にないアニオリのシーンで幕を閉じる。そこで炭治郎は、今回の勝利は刀鍛冶の里が積み重ねてきた「伝統」と「技術」によってもたらされたものであり、それに比べれば自分の力などたいしたことはなかったと語る。それは今作を貫くテーマを何よりも象徴する言葉であっただろう。この最後のシーンは本当にすばらしかった。
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