見出し画像

20年ぶりの神戸の港とプルースト的記憶について

高校時代に部活の遠征で来たとき以来の神戸。何をしに来たのだったか覚えていない(甲子園を観に来た気がする)けれども、羽目を外すことが厳しく禁じられていた野球部で、ほんの少しだけホテルを抜け出して皆でここを歩いたことだけが強く記憶に残っている。あれは確かに青春だった。

今ではこんな時間にこうして一人で自由に歩き回れるのだから、僕も大人になったものである。完全な自由よりも束縛下におけるほんの少しの自由の方がはるかに貴重なものであったのだと、今になって思う。

同じ場所を歩いていて、当時の純粋な想いがよみがえってきた。

最後の夏を前に、このチームで過ごした日々のことをやや感傷的に振り返っている。そんな過去の自分をそこに見い出したのである。

プルースト効果。

この記憶は普段はどこにあり、どのようにして20年後の僕の意識に再び訪れるのだろう。

当時はここにコーヒーカップがあったような気がするのだが、それは僕の記憶違いか、それとも取り壊されたのか、そんなことが妙に気になっている。そんなことが気になるのは、私たちはおそらく場所というものに自己の存在を分散させ、そこに思い出を定着させることで、自分と世界との関係を規定して生きている存在だからである。「そこにかつてあった」ということは、そこにあったものを自己の一部として今も生きている私がいるということである。福永武彦の小説の次の一節のように、私はその場所において過去の私をもう一度生き直す。

僕は決して忘れないよ、と彼は言った。
僕は決して忘れないよ、と私は言った。

福永武彦『忘却の河』

この一節は人間の心的な現実の表現である。そうして人はつねにその場所で生きた自分というものを自己の内に宿している。

たとえば、ある場所が失われるとき、そこに隠されていた私の過去もまた永久に忘却へと沈んでしまうだろう。それは忘却してなお私のなかに何らかの形で生き続けてはいる。しかし、そうはいっても、過去が明示的に記憶されていることは人間に意識的な生を歩ませ、世界への愛を持って生きていくための基本的な条件でもある。

しかるに、今を生きる人々はいとも簡単に自分の周囲の環境を破壊し、その破壊と共に失われるものがあることを考えない。人々の意識はつねに「未来」へと向けられていて、絶え間ない「今」が堆積した結果としての「過去」のなかに、すばらしい財産が眠っていることなど考えもしないのだ。

僕が人々の楽観的な未来予測に背を向けて、どちらかというと過去を贔屓にしているのもそのためである。基本的に、僕の好きな作家たちはみな過去の擁護者である。たとえば辻邦生。

私ね、うちによくくる美術商を知っているの。この商人は、パリでは相当に有力な人だと、シモーヌ夫人がいっていたわ。で、この人がドーヴェルニュ館にくる目的というのは、ここにある美術品を何とか手に入れたいと考えているからなの。〈こんな傑作を、山のなかに置いておくのは、もったいない話です。〉とこの男はいうのよ。これでは宝の持ちぐされです。これは万人に共通の宝です。 万人のために、と私は申しておりますんで......。〉 この男は最後には、かならず 〈万人〉を持ちだすのよ。でも、ドーヴェルニュ館は閉された宝庫だし、めったに鍵は渡さないわ。だって、ここには、単に美術品が置いてあるだけじゃなく、三百年の時間と、生活と、そこから生れた涙や怒りやよろこびが、同時に、とじこめられて、まだ生きつづけているのよ。あの人は〈万人〉のためというわね。でも、ここに生きている亡霊たちと一緒にいて、はじめて、これらの美術品や装飾も生きることができるのだわ。美術商がいちばん眼をつけているのは、あの大サロンを飾っている西の壁一面を覆うゴブラン織りのタピスリなの。マリ・ドーヴェルニュが結婚の贈物にもってきたあの四枚つづきの、四季の農耕詩を織りだしたあれよ。あの男は、あれを、美術館に入れるように(〈万人〉のためにね) 説得したり、奔走したり、しているわけなのよ。でも、あの見事なタピスリがここから出てゆくとき、それはこの館から何か生命の息吹きとでもいったものが抜けだしてゆくことを意味するのよ。また、どこかの美術館に入ったタピスリは、この館のなかに今なおたちこめる重苦しい執念や、血なまぐさい復讐心、絶望、激情などを養分にし、それらを呼吸していただけに、この空気と養分を失って、日一日と、ひからび、色あせてゆくほかないのよ。ね、マーシャ、 あなたがこの家にきたとき、ここが、あなたの心を落ちつかせる、しっくりしたところだ、といったでしょ? それはなぜだかわかる? この部屋の一つ一つは、よそでみる広間と同じかもしれないけれど、それでも、ここにはまだ、人間たちの確執や愛や憎悪が、濃く生きているからなのよ。それはまだ粗野で、むきだしで、 それだけに激情の純粋さがあったのよ。 血が流れたかもしれないけれど、その血は純粋さがあがなっていたのだわ。

辻邦生『廻廊にて』

僕ははじめてこの文章を読んだとき、本当に感銘を受けた。こんなにも激しく、過去を擁護する文章を書くことができる人が、今の時代にいるだろうか。

こうした場所が持つ力を尊重する態度は、新海誠の『すずめの戸締まり』にもみられる。この作品で重要な役割を果たす「閉じ師」が地震を鎮める際に行うことは、かつてその場に生きていた人々の生活を強く思い描くことである。ちょうどあの作品では神戸の街が描かれるが、それは決して震災の記憶と無縁ではないだろう。

新海の作品には、一貫して、特定の場所への微細な感覚を描こうとする姿勢がみられる。新海作品においては、人の想いが堆積し強い磁場を形成している「常世」の世界が、目に見える我々の世界と写し鏡のようにして存在している。

ヴィクトール・フランクルの言うように、過去とは最も確かな存在の形式であり、私たちの生を意味づけるのはこの過去に他ならない。だから私たちは今を懸命に生きる必要があるのである。

久し振りに訪れた神戸で、夜の街を一人歩きながら、そんなことを考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?