髪の毛にまつわる雑感。
髪の毛を50cm切った。
伸び切った髪はバッサリ切ってもまだ肩上に残るくらいにもなっていた。
元々、毛量も多く太くて重たい髪質で、自分の黒髪が好きなのもあり髪の毛も染めたことがない。自分でも自分の髪の毛はなかなか上質な髪だと自負がある。
人生2回目のヘアドネーションをしたが、これは売っていたらそれなりの値段になっていたかもしれないと思ったり。
髪の毛や髪型は多様なイデオロギーや意味を持つことが多々ある。
男の子が綺麗に髪の毛を伸ばしていれば「女の子みたいだね」と言われ、女の子が短髪にすれば「ボーイッシュだね」と言われることもある。
女子が髪の毛をバッサリ切ると「失恋したの?」と言われることもあるし、男性が「けじめをつける」という時はなぜか知らないが坊主にしたりすることもある。
小学校や中学校でも、今でもやってるのかは知らないけど、少しでも髪の毛が明るい色だと「地毛の証明」をしなければいけなかったり。
少し前に兵庫県姫路市の県立高校で、アフリカ系アメリカ人と日本人の親をもつ男子学生が卒業式のためにコーンロウにしたら卒業式に参加できなかったことがニュースにもなっていた。
中国では23歳の女性が髪の毛がピンクだったことを非難され、その後自死した出来事もあった。
アジア系の女性に対する「アジアンビューティー」という言葉もある。その中の特徴には大体「綺麗な黒髪ロング」が含まれている。以下の記事にはこのように書かれている。
どうして、人は自分の好きな髪型に変えることができないのだろうか?
緑に髪の毛を染めたかったら染めてもいい、白髪を染めたくなかったらそれでいいし、元々カールのかかった髪の毛でそれが嫌なら直毛にしたらいいし、それが好きならカールの髪の毛のままでいい。
自分が「綺麗だ」と思う髪型にすればいいじゃないか。
他人に髪の毛についてとやかく言われる筋合いはない。
ダイバーシティなんだろ?多様性なんだろ?
これを大学生が言ったら「若いね。まだ社会に出てないから」と言われるだろうか。「変わった人だね」と揶揄されるかもしれない。
先の問いの答えのひとつとしては、社会なるところにはある一定の規格化された美しさのようなものが存在していることが言えるだろう。「美しい」と思えるかどうかは階級や社会背景、生まれ育った環境に起因している。
(適当に基本的な参考文献を挙げるとすれば、ブルデューの文化資本やハビトゥスやレイヴとウェンガーの正統的周辺参加の話が参考にはなるだろう。アンダーソンの想像の共同体やホブズボウムの創られた伝統の話も参考になるだろう。)
今回はコロナが始まってから髪の毛を伸ばし始めた。
コロナが始まったときに「密を避けましょう!」と同時に「美容院に行くのを控える」時期があったように記憶している。その頃に「コロナが終わったら髪を切ろう」と思って伸ばし始めた。
一種の祈祷みたいなものだ。
しかし、コロナは終わらなかった。
最初に何をもって「終わる」とするのかを定めてなかったのも問題だ。
この髪の毛と修士論文を提出し、一緒にインド留学に行き、無事修了し、博士後期課程に進学した。4年も伸ばせば髪の毛との思い出もなんとなくあり、切ったときには自分のアイデンティティが一つ切り取られたようだった。
この髪の毛を切った時の高揚感は3日で消える。
髪の毛を切ってすぐ知り合いとすれ違い、自分であることすら気がつかれなかったとき「人は外見を見ているわけではなく、ヘアスタイルしか見てないんだな」と気がつくわけだ。髪型が外見の7割ぐらいを占めるのかもしれない。
この髪の毛は子どもの医療用ウィッグを作るものにドネーションした。
ロングのヘアスタイルにしたい子どもに届けばいい。
長い髪を育てるのは時間と労力もかかるし、その分思い出もある。
ウィッグを作る側や髪の毛を切る人や髪の毛を伸ばした当人以外には感じられないことだろうが、その髪の毛が、何かの役に立つんだと思えれば、髪をバッサリ切ることに悲しさや寂しさはない。また気が向いたら伸ばせばいいとも思えるものだ。
特にこの話にオチもまとまりもないが、以上が髪の毛にまつわる最近の出来事だ。
P.S. 今後髪の毛を切るときは、自分がこの人は最高の美容師だと思える美容師のところで髪を切ろう。
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