同性愛 時々 異性愛 ~7話~

「原因はストレスでしょう。清水さんに心的外傷を負うような出来事があったか、知っていますか?」

 莉子は昔父親から虐待を受けていた。その名残で今も男性とコミュニケーションをとることが苦手だ。もしかしたら昔の恐怖を思い出す出来事が、最近あったのかもしれない。

「莉子は昔、父親から虐待を受けていました。そのことが関係しているかもしれません。」

 医者は聞いているのかどうか分からない、真摯さを全く感じない態度で私の話を流していた。この医者にとって私たちは大勢いる患者の中の一つで、この壮絶な過去を持つ莉子もこの医者にとってはよくいる患者、ということにしかならない。この医者は軽薄だ。信用なんてできない。

「そうですか、じゃあそれが原因かもしれませんね。」

 医者はカルテに何か書いたのち、近くに看護師を呼ぶと何かを耳打ちした。耳打ちされた看護師が病室を出て、莉子の様子を見に行ったらしい。

「解離性障害に直接的に聞く薬はありませんが精神を安定させる薬はありますから出しておきますね。」
「これから行う治療というのは・・・?」

 私が問うと医者はメガネをくいっと持ち上げ定位置に戻した。

「はっきりと申し上げますと、清水さんにはそういう特性があるんだと思った方が良いです。」

 病室の扉が開いて莉子がゆっくりと病室に入ってきた。けれど私は莉子の表情を見る余裕はなかった。

「特性って。今のままじゃろくに生活もできない!」

 隣に莉子がいることに気が付いていながら私は叫んだ。今の莉子の人格が誰なのかは知らないが、莉子が戻らないならば私たちは一生平穏に暮らせない。そんなことがあっていいものか、完治すると言ってくれ。私は現実を受け入れられずに医者を睨みつけた。

「東さん、落ち着いてください。」

 私はここに莉子を治してもらいたくてやって来たのに、そんな投げやりな診察があるか。人格が変わる特性? ふざけるのもいい加減にしろ、莉子がどれだけ困惑し苦悩しているかも知らずに、何もせずに受け入れろとこの医者言うのか。

 私は今すぐにでも怒りをあらわに暴言を吐き散らかしたい気分だったが、そんな行動はとるべきではないと自分を抑え、下唇を強く噛み気持ちを押し殺した。医者も看護師も私たちを横暴な人間と判断し、軽蔑の眼差しを向けていた。違う、私たちは至って普通なんだ、そんな声は音にはならず彼らの白い目に負けて消えていった。

「薬がなくなったらまた来てください。お大事に。」

 医者はそう言って机に向かい、もう私たちを見ていなかった。
 二度とこんな医者のもとに来るもんか。私は医者に礼も言わずに病室を出て言った。莉子は必死に私の後をついて来る。

「莉子、どうしてそんなに怒っているの?」

 この声のトーンはマコだなと私は察知し、軽く舌打ちをした。マコには過剰な思いやりというものがあり、それがなんとも私は気に入らなかった。偽善に近いと言う印象を持っていたからだった。それにどこか世話を焼きたがる母親のように思える時もあった。うざい、と表現してしまえばそこまでだが一緒に居ても気が休まることはまずなかった。

「家に帰ったら話す。」

 私は薬と診察でかかった金を払い、病院をそそくさと出た。急いで帰らないと、面倒くさい人格が莉子に出たら帰るのも一苦労だ。私はタクシーを拾って莉子の家に帰った。私は一向に腹立たしさが収まらないし、そんな私の顔色を窺う様子のマコにも苛立ちが募る。お前のせいで不快なんだよ、と言ってしまいそうだった。一昨日の決心はもう既に崩壊気味であった。

「夏南、大丈夫?」

 幸いなことに家についても莉子の人格はマコであった。無事に帰れたことをにとりあえず安堵し、私はソファーに腰かけた。気苦労と苛立ちで酷く心と頭が疲れている。隣にマコが腰かけても優しい笑顔を浮かべる余裕は、私にはなかった。

「夏南、どうしたの?」

 マコは何度も私に声をかけてくる。甲高いマコの声は脳裏に響き渡り、私の頭痛を助長した。苛立ちは収まるどころか募る一方だ。

「ちょっと静かにしてくれない?」

 私のこの声のトーンは明らかに恋人に発する声ではなく、冷酷で切り捨てるような言い様だった。自覚がありながらも、私はそれを謝罪する気はない。むしろ私はわざとそんな声を発し、マコに悪意を向けていた。マコを傷つけてやりたいとすら思っていた。

 何故私は莉子のようにマコたちを愛せないのだろうか。罪悪感が沸いても、それを蹴り飛ばすほど湧き上がる怒り。上手くいかない現実も、莉子が戻ってきてくれさえすれば全て解決なのに、そんな結果はどこかの星のように遠ざかって、訪れない気がした。

「ごめんね、ご飯作って来る。」

 マコは申し訳なさそうに愛想笑いを浮かべたのち、台所へ向かった。

――この世の中に絶対はないよ。必要なものは残り不必要なものは消えていく。どんな時も試されていると思って生きるしかない。

 一昨日莉子が私に言った言葉が正しい気がして、どうもやりきれない。

――試されている? 一体誰に? 何故試すためにこんな惨いことをしたの? こんな試され方をしなければ私たちは幸せだったのに。

――莉子、もしかして貴方にとって私は不必要なものなのかな? だから私は誰かに試されて愛が揺らいでしまっているの?

 どこの誰に向けて発しているのか分からないこの言葉。どうか答えてくれ、と言っても返ってくるのは私の心の中に響き渡る、発狂した人間の叫び声。私の本音も建前も全てかき消してしまう。

 リビングに充満する美味しい料理の匂いたちも、莉子以外の人格が作ったのだと思うと吐き気を催す要因にしかならない。そんな自分が嫌だった。一昨日誓ったばかりの愛情を、私はもう既に裏切ろうとしていた。私が愛しているのは莉子なんだ、と心が頑なに莉子以外の人格を拒絶し始めた。私の愛は所詮、人格が変われば揺らぐものなのだ。それは果たして愛と言えるのだろうか。ただの執着の塊ではなかろうか。

「夏南、オムライスできたよ。」

 マコは満面の笑みでオムライスを運んできた。匂いを嗅ぐだけで全身に鳥肌が立った。

「ああ、ありがとう……」

 私は自分の現状を悟られないように、口角を無理くり上げて笑顔を作った。ケチャップで書かれたハートに気づいてほしいマコの思惑をひしひしと感じて、私は顔をしかめそうになる。第一、こんな大きなハートを塗りつぶすほどのケチャップは過剰塩分摂取量だ。私はケチャップのハートには触れずにオムライスを口に運んだ。オムライスを咀嚼して器官を通しても、私は何も思わなかった。ただ自分は食事をしているのだ、と当たり前にそう感じた。それぐらいオムライスの味にも見た目にも感想を持てなかった。

「美味しい?」

 マコは未だにオムライスを食べずに私を見て聞いた。

「うん」

 いつまでもご飯粒が口の中に居座り、私は砂利を食べている感覚に陥った。

「よかった」

 マコは安心したように笑顔を見せ、オムライスを食べ始めた。私は何も考えまいと口にオムライスを運び、咀嚼して胃に運ぶ作業をし続けた。元々食に関心はない私だが、これほどまでに味のしない食事は初めてだ。食事が喉を通る感覚が、なんだか気持ち悪かった。

 オムライスを見つめる姿勢に疲れ顔を上げると、向かいに座っているマコと目が合った。きっとマコは私に笑顔を向けてくるだろうと思い、私はマコの笑顔を確認する前に愛想笑いをマコにしてそっぽを向いた。

 今の状況が続いたら私は精神崩壊を起こす気がする、早く莉子以外の人格に愛着を持てるようにならなくては。

 やっと完食した真っ白の皿を見てほっとしたのも束の間で、今度私を襲ったのは胃の悲鳴とも取れる食べ物の逆流の予兆だった。皿を洗うマコに気づかれないように、私は口元を抑えてトイレに駆け込んだ。トイレに入り少し気を緩めただけで、私が食したものたちが一斉に再び私の前に姿を現す。胃液まで吐く勢いで嗚咽が止まらなかった。

 体中が現実を拒否しているようで、意識が段々遠のいていく。この現実を受け入れることにもう限界かもしれない。その証拠に私の体が食べ物の逆流という異常な現象で苦しみを表現していた。

 莉子以外の人格を受け入れられない私は、いっそのこと死んでしまえばいいとすら思った。莉子がいない今を生きることを、そして莉子以外の人格を好きになることを身体が拒否している。もう楽になりたい、と私は死を望みこの家に自殺の手立てになるものはないかと思考を巡らせた。

 しかし死を望む私の脳内に浮かび上がってくる莉子との思い出たちは、私に死んではいけないという思慮を起こさせた。それほどまでに莉子には生命力があり、そんな莉子に励まされ過去も現在も私は生きてきたのだ。

――死んだらだめだ、私は莉子を守るために生きねばならない。

 死んでしまいたいと思った甘い考えの自分に渇を入れ、私は生唾を飲んだ。吐いた後の独特な酸味を感じる。今の莉子に頼れる人間は私だけだ。ならば私は生き耐えて、莉子が元の莉子に戻るまで辛抱強く待たなければならない。
 予想以上に過酷な道のりに私は計り知れない絶望感を抱くが、聞こえてきた莉子が奏でる生活音に淡い期待を抱いて私はトイレから脱した。

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