同性愛 時々 異性愛 ~5話~

「私にとっての一番の幸せは夏南が幸せであることなの。」

 莉子はいつも私の幸せばかり願っていた。自分が大変な時も私の幸せを願う莉子はどうかしている。私のことなんて利用して振り回して苦しめて、人生を滅茶苦茶にしてくれたっていいのに。
 そう思うほど私は自分の人生に、莉子を置きたいと思っていた。莉子によって私の人生が変わるならば、それ以上の幸福は私にはない。

「私にとっての幸せは莉子と一緒に居ることだよ。お願いだから私から幸せを奪わないで。」

 莉子の両肩を強く掴み、私は必死で訴えた。その訴えは莉子の中に潜む人格たちに、もう二度と出てこないでくれと伝えようと必死だった。

「分からないよ。」

 莉子は優しく口角を上げて、私の髪の毛に触れて言った。

「もしかしたら私よりも夏南を幸せにしてくれる人がいるかもしれない。」

 私の髪の毛を愛おしそうに梳いている莉子は、先ほどから少しも変わらず冷静だった。その冷静さが、私を簡単に断ち切ってしまいそうで恐ろしかった。
「そんな人絶対にいない、いるわけがないよ。」
「こんな人格が変わってしまう恋人なんて、一緒に居ても不幸になるだけ。」
「絶対そんなことない!」
「夏南。」

 私の名前を呼んで、もう何も言うなと伝える莉子。
 私は言葉を発するのをやめて下唇を噛んだ。沈黙の重さが私の心をずっしりと重くする。

「この世の中に絶対はないよ。必要なものは残り、不必要なものは消えていく。どんな時も試されていると思って生きるしかない。」

 莉子は笑顔で言った。
 私は莉子にとって不必要なものなの?だから莉子は私の前から消えようとしているの?

「今の私がどんな状況なのか、自分では全く分からないけれど夏南の顔を見ていたら大体想像つくよ。」

――嗚呼、やはり私の心情は莉子にとって筒抜けらしい。

 どんな表情を浮かべてよいのかわからず、私は莉子を直視できなかった。こんな態度をとってしまう私には、もう莉子の恋人でいる資格がないのかもしれない。

「私、どんな顔してる?」

 私は右目から涙を一粒流して言った。莉子はその涙を親指で拭った。親指から伝わるぬくもりからでも、私は莉子に愛されていると実感してしまう。 なのにどうしてこんなにも心が荒涼してしまうのだろう。

「私がお父さんから虐待を受けていたって打ち明けたときの顔と一緒。」

 莉子は笑って言った。

「今の夏南の顔はどうしていいか、何を言えばいいのか分からない時の顔だよね。」

 自分の人格が変わってしまうかもしれない窮地の中で、どうしてそんなに笑顔で居られるの? 私は莉子が不思議で仕方なかった。

「人間、生きていればいろいろあるよ。でもあまりにも、起きたことが奇妙過ぎて自分でも対処できない。だから私は、夏南を解放したい。」

 解放って何よ。まるで今の状況が自分のことだけのように言わないで。なぜ莉子は自分の人生に起きたことを、私とは無関係なこととして処理してしまうの? なぜ私を巻き込んでくれないの? なぜ私を莉子の人生の中に入れてくれないの?

「いやだ、いやだよ。離したくないよ、一緒に生きていこうって私たち約束したよね?」

 私は莉子の首元に噛みつくように抱き着いた。莉子を強く抱きしめて、どこにも行ってしまわないように、一生離れないように、一心同体になってしまいたいとさえ思った。

「でもどうするの? もしこれからも人格が変わり続けて、仕事もしないでぶらぶらしだしたら。」

 まるで子供をあやすかのように体を左右に揺らす莉子は、私を落ち着かせようとしているようだった。本当は私が莉子の不安を少しでも取り除いて、私が莉子を支えなければいけないのに。

「そしたら私が稼いでくる。莉子は私のお嫁さんになって?」

 私は莉子の首元から離れ莉子の目を見て言った。

「結婚しよう。」

 今までずっと取っておいた最大の愛情表現の言葉を、私は莉子に発した。莉子の表情が段々崩れていき、隠していた不安や恐怖が涙となって露呈した。私は莉子のもっと嬉しそうな顔が見たくてこの言葉をずっと大事に持っていたのに、莉子は不憫な表情を浮かべていた。そんな憂い顔を見てしまえば、抱きしめることすら臆してしまう。

「ごめん、ごめんね。」

 莉子は自分の目元を抑えて言った。その謝罪は、一体何に対しての謝罪なのだろう。私の気持ちは受け取れないと言うことなのだろうか。

「謝らないでよ。」

 私は自分の愛情表現が受け入れられず槍となって跳ね返り、さらに加速して飛んできた気分だった。寸分の狂いもなく私の心臓を貫くその槍は、どんな言葉よりもどんな凶器よりも無慈悲で確固たる力を秘めていた。

「嬉しいの。嬉しいのに、情けないの。」

 莉子の涙に要因に喜びが含まれていることを知り、胸をなでおろした私は莉子を自分の胸元に抱き寄せた。血管がきゅっと締まって私の心拍数を上昇させる。脳みそが幸せと不幸を区別できなくなって、異常作用を起こしているようだった。

 莉子が想像していた未来はもっと違うものだったのだろう。負けず嫌いでストイックな莉子に、今までの生活は送れないという自身の限界を植え付けることが私にとって何より悲しかった。けれど莉子の中に現れていた人格たちを見る限り、今の莉子の生活を送れる者は誰一人としていない。今の莉子にそのことを直接言葉で伝えることは私にはできないが、莉子はもうすでに察知していた。

「大丈夫だよ、自分のペースでいいからゆっくり生きていこう。」

 私は莉子の背中に触れた。莉子の背中は泣いているせいで熱を帯びているが、でもどこか寒々しかった。いつ自分の人格が変わるか分からない恐怖、それは他人である私には想像することしかできない。

「治ったら莉子の好きな川に行こうよ。」

 私は前向きな話題にするべく莉子が好きな川の話を始めた。
 莉子は綺麗な自然が好きだ。特に晴れた日にキラキラと太陽の光を反射して光る川を眺めているのが好きらしく、私たちはよくデートで川に行っていた。父親に虐待を受けていた時、父から逃げるために近くの川に逃げていたという話を莉子から聞いていた。

「川は私を守ってくれているようだったよ」

 そう言って川に手を入れて水に触れていた莉子を私は綺麗だと思った。風に吹かれて靡く莉子の髪は川の流れのようにしなやかで諸行無常という概念を忘れてしまいそうだった。

「今すぐにでも飛び込みたい。きっと気持ちいいんだろうな。」

 真夏の厳しい日差しの中、生温く熱された川を穏やかな眼差しで見つめる莉子。私は莉子の願望を叶えるべく履いていたサンダルを脱ぎ、ズボンを巻くって川にジャバジャバと入った。

「ずるい。」

 そう言って莉子も靴を脱いで、スカートの裾を持ちながら川に入った。私の脛までしか水位のない川は、ほどほどに冷たくて気持ちが良かった。足で川の水を弾かせる莉子は無邪気でとても愛らしかった。
 

 そんな幸せだった過去をふと思い出し、私は懐かしさに涙を流しそうになった。いつまでも見ていたかったあの莉子の笑顔を忘れてしまいそうな恐怖に、私は体を震わせた。

「釣りでもしてゆっくり時間を過ごそう」

 そんな未来、いつくるの? その問を莉子にされるのが怖くて、私はぎゅっと莉子を抱きしめる手に力がこもった。

「ありがとう。」

 小さな声で莉子は言った。
 どれほど心細いだろう、どれほど辛い現実を恨み、どれほど逃げ出したいだろう。決して問いかけることが出来ないその問いを、私は心の中で何度も反復した。

「何も言わないで。」

 私は強く莉子を抱きしめた。莉子の中に眠っているリン、マコ、メグ、サチの人格を押しつぶせたらいいのに、そう思えば必然的に私の手に力がこもる。でも皮肉なことにこの力は莉子の体にだけ、痛みとなって伝わる。

「でもちょっと痛いや」

 莉子は穏やかな声で言った。

「ごめん。」

 ただ莉子に痛みを与えただけの私は、莉子の体を離した。莉子を失いたくない一心で彼女を抱きしめても、莉子以外の人格は消えない。いつでも潜んでいることに変わりは無く、私たちの不安材料は消えないのだ。その現実を受け入れて生きていくしかないのだ、と莉子は理解している。だったら私は莉子に住む人格たちを否定することはできない。莉子をこれからも愛し続けるとはそういうことなのだ。

「夏南、隈が酷いよ?もう寝たら?」

 ひとしきり泣いて心が少し落ち着いたらしい莉子は、私の顔色の悪さを心配した。疲労が私の睡魔を加速させ、私はその莉子の提案に乗った。

「そうだね、もう眠いや。」

 私は莉子の手を引いて寝室に向かった。

「病院は何日に予約してくれたの?」

 布団に入る私に続きながら莉子は聞いた。

「明後日。」
「うん、わかった。ありがとう。」

 私は布団の中で莉子を抱きしめた。暖かくて少し柔らかい、どうやら莉子は太ったらしい。今まで摘まめなかったお腹の肉が柔らかく摘まみやすくなっている。それは私にはむしろ良き知らせだった。けれどそんなことは女性である莉子には口が裂けても言えなかった。女性同士のカップルのいいところは、どちらも女心がわかることだ。どんなに親しい仲になっても私たちはデリカシーのないことは言わない。

「夏南、少し痩せたんじゃない?」

 しかし私の心情も知らずに莉子は言った。

「そうかな、体重計ってないから分からないや。」

 もし本当に私が痩せたのならそれはここ最近仕事が忙しかったせいだ。

「私のことで思い悩んで痩せたりなんかしないでね。」

 莉子は私の頭を規則正しく撫でた。

「違うよ、最近仕事が忙しかったんだよ。」
「そうなの?頑張ってるねぇ。」

 やはり莉子は、無理は禁物だよ、なんて甘い言葉は言わない。

――嗚呼、私は莉子が大好きだ。

 莉子は甘えという優しさで私の人生を決して否定しない。頑張ったのなら頑張ったと素直に認めてくれる。そして痩せた私に少しも同情しない。その莉子の対応は私のすべてを受け入れてくれているように思わせ、私に深い愛情を感じさせてくれるのだ。

「もっと頑張るよ。」

 私は段々意識が遠のき始めた。目が覚めたら莉子ではないかもしれないという恐怖感は当然のように私の胸の中にあるが、それは黒い靄の様に掴めずふぅっと息を吐けば飛んでいきそうなのに、いつまでも私の心に居座っている。規則正しく私の頭を撫でる莉子の手が私を眠りに誘い、私はそれを少しも拒否することなく眠りについた。とにかく私は疲れたのだ。もしこのまま一生、莉子の人格が変わり続けたらどうしよう。いや、きっと莉子はまた元通りになるんだ、そう自分に聞かせなければ未来が暗くなりすぎて、私たちは途方に暮れてしまいそうだった。

 莉子と一緒に生きる幸せを手に入れるのと同時に過酷な現実に気が付いてしまった私は、泣いて喜ぶほどの生き地獄に行きついてしまったようだった。

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