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幕間 - Intermission - むつ・恐山

 薄群青色に染まる水面は時に陽が射し、時に翳りつつ小さく小さくさざなみを打ち、白くけぶる山影は漂う雲に導かれるかのように時折顔を出す。だが木々を照らす柔らかな光に誘われてしかと目を凝らしても、手を伸ばせば届きそうなその彼岸は濁として見えない。

 むつ市街から県道4号線のつづら折れを車でひたすら上ると、森を抜けて急に視界が広がる。宇曽利山湖だ。火山である恐山にカルデラ湖として存在するその湖の畔には、曹洞宗の寺院である恐山菩提寺が門を構えている。はるばる下北半島の深奥にまで足を運んだ理由はこの寺院を訪れることにあった。
 一目見ればその死生観を一変させるという独特の景観を持つ恐山は、火山性ガスを噴出させる死の荒野でもあり、一見すると宗教寺院にはそぐわない地形である。だがごつごつとした岩肌を露出させ、あたかも地獄を連想させるその光景は、得も言われぬ雰囲気を漂わせながらも見るものに不思議な安堵感を抱かせる。

 入口に構える山門からも開放感が溢れている。通常の寺院は塀などに囲まれているのが常だが、恐山菩提寺では危険な個所を除いて大きな外塀はなく、寺院全体が恐山という地形の一部として存在している。山寺一体となった本院は、それ自体が訪れるものを異世界へといざなう魔境のようだ。
 寺院は山を背に建っており、その山ではそこここから硫黄の煙がうす白く漂っている。溶岩性の岩壁はお世辞にも滑らかとは言えず、敵意をむき出しにしたような岩肌からは、生える植物もなく白い砂が一面を埋め尽くすばかりだ。
 岩山に沿うように通された道を歩くと湖に行き着く。穏やかな水をたたえるその湖の岸辺には数本の風車が佇み、湖面を走る風に身を委ねている。それらは忙しく変化する山の光線とともに、別世界へと迷い込んだような錯覚を見る者に齎すのだ。

 寺院内に限らず、湖岸をはじめとして敷地のあちらこちらにはこの風車が飾られ、吹き抜ける風に嬉々としてその車を回している。これは火山性ガスによって火気厳禁である寺院内において、線香の代わりに亡くなったものたちを供養する代用品なのだ。その風車を伴った風景は恐山の代名詞といっても良く、写真などでご覧になった方もいるだろう。風車が持つ玩具・遊具性から水子供養を連想するかもしれないが、ここは特に水子に限った寺院ではない。すべての亡くなった者たちを思い出させる場所だ。

 特に強く思い出したのは、10年前に亡くなった友人のことである。彼とは2000年から2004年頃にかけて同じ会社で働いていた。知り合ったのは会社の研修施設においてだが、歳も割と近かったためすぐに打ち解けた。モータースポーツが好きで、特にF1では話が合い盛り上がった。勤務地は違うものの、お互いにメールのやり取りなどを行い、時には相談を持ち掛けあっていた。

 2002年になって、僕が彼のいる営業所に異動となり、本格的に一緒の仕事をするようになった。業務は多岐に渡りなおかつ長時間の仕事だった。今でいうブラック企業といっても良かったが、若かったこともあり一心不乱に仕事をしていたように思う。
 住居も彼とすぐ近くになり、プライベートでも一緒にいることが多くなった。当時は高崎に住んでいたのだが、近辺の美味い料理店や呑み屋などをよく教えてもらった。僕の嫁ともすぐ仲良くなり、3人で家呑みなども良くしたものだ。

 その会社を2004年に退職した後も僕はしばらく高崎にとどまり、別の仕事を続けていた。彼とはその間も頻繁に連絡を取り合って、お互いが休みの日にはどこかへ出かけたりして近況を報告しあった。話の9割は本当にくだらない話だったが、少なくとも笑いが絶えたことはなかった。

 2005年の後半にはその仕事も辞め、僕は高崎から離れることとなった。その後はあちこちを転々とすることになるのだが、彼とは連絡を取り合っては実にくだらない話をしたり相談を受けたりしていた。一度は新潟に住んでいた時に遊びに来てくれたこともある。それは4月も終わろうとしていた頃で、例年に比べてかなり遅れた満開の時期に、高田の夜桜をみんなで観に行った。僕の中では腐れ縁とはきっとこういうものだ、という認識がぼんやりとあった。仕事も居住地も変わりながら粛々と続く仲というものがこの世にはきっとあるのだろう。そんな風に考えることも少なくなかった。

 なので、この時が彼と直接会う最期の機会になるとはまったく予想もしなかった。

 義父の体調が思わしくなく、2008年に僕は宇都宮へと戻って来た。それと入れ替わるように彼は名古屋へ新しい仕事のために赴いた。その後も正月などの長期連休には宇都宮かどこかで集まろうかという提案が何度かなされたが、お互いに多忙のためなかなか都合がつかない。
 名古屋での仕事は彼にとってかなりのストレスだったようだ。それまでと同じような職種でありながら地域性もあって勝手が変わり、人も職場の雰囲気も異なる地での孤軍奮闘は今にして思えばかなり辛かったことだろうと想像する。
 転職時に相談に乗ったとき、僕ら夫婦は彼がその仕事に就くことを再三再四反対したのだが、元来頑固者である彼はそれを受け入れなかった。一つには収入面の不安がそうさせたと思うが、近しい職種であること、また、恩義のある人から頼まれると断れない義理堅い性格が災いしたのだろうと思う。

 彼は名古屋での勤務で消耗し、半年ほどで高崎に帰ってきた。高崎での仕事を評価してくれていた知人に紹介されてすぐ仕事にはありついたが、それもまた同業種の仕事だった。
 消耗したはずの仕事に再び就くことは、いくら勝手がわかっているとはいえ危険な行為だ。僕も2005年の途中まで同じ業務をしていたのでわかるが、退職してからしばらくの間は精神的にかなり消耗しており、仕事ができるような状態ではなかった。その間は嫁に食べさせてもらっていたのだ。彼女の寛大で強靭な支えと、写真という自己と向き合える一種のセラピーのような趣味がなければ、僕も同じような事態に陥っていたかもしれない。

 その予想通り2009年、彼は体調を崩し入院した。そのとき判明したのが心臓疾患である。手術の必要があった。
 2010年の正月に高崎へ遊びに行こうと嫁と計画を立てていた。メールでその旨を彼に打診するも、珍しく返事がなかった。あとで知ったのだが、その時彼は手術のために入院していたのだ。そういうことはちっとも話さない。余計なことは延々話しまくるのに、だ。心配をかけたくなかったからなのか、僕に怒られたくなかったのかはわからない。おそらくその両方かもしれない。とにかく、その当時の僕は彼の病状についてまったく知らなかった。

 カテーテルで行われたその手術は幸い成功し、彼はすぐに社会復帰した。経済的に復帰せざるを得なかったし、周囲からも期待があった。その期待に応えるべく、彼はまたストレスの海に飛び込んでいった。
 そしてその年の4月、彼は帰らぬ人となった。享年41歳である。

 死因はやはり心臓疾患であり、アパートで倒れた時には残念ながら助からなかったようだ。救急で運ばれての長時間に及ぶ手術に家族はやりきれない思いがあっただろう。前回の手術に医療過誤があったのではないか、と勘繰るのは心情としてありうることだ。亡くなった後もしばらくは医療関係と揉めたと聞いている。確かに、すぐさま納得できる亡くなり方ではなかった
 病状の詳細は割愛するが、個人的には彼は過労死だったと思っている。もちろん回避する手立ては途中何箇所かあったはずで、そのすべてのボタンを掛け違えて最悪の結果に至るのだろう。僕ももっと強く主張し、特に名古屋への転勤をやめさせるべきだったと何度か至らぬ反省をしている。
 この歳になって初めてわかることだが、人間はそれほどストレスに強いわけではない。だが渦中にあって、人はそれに麻痺するのだ。そして自分はストレスに耐えられてる、と勘違いする。気づかないだけで、ストレスは確実に身体や精神を蝕んでいる。

 彼の葬儀に高崎へ赴いた時に沸き起こった感情は「憤り」だ。つまりちょっと怒っていた。体調が悪かったことはひた隠しにして、勝手に死にやがって、という割り切れない感情がどこかにあったのは否定できない。正月にメールが返ってこなかったことをおかしいと思わなければならない。そういう自分の落ち度が余計に拍車をかけた。
 そういった感情から抜け出せずに10年が経つ。端的に言って彼の死に方に納得がいってなかったし、もっと言えば自分を許していなかった。最も親しい友人が倒れるまでお前は何をしていたのか、と自問自答し続けている。

 そういったこじれた感情が、恐山を訪れて初めて氷解した。成仏であるとか輪廻転生であるとかを感じることはないが、安らかであることを確認し、安らかであれと願っていた自分をようやく許すことができた。会える会えない感じる感じないの問題ではなく、ただ安らかであるという確信が持てたのだ。
 10年という歳月がその安らぎや許しをもたらしたのかもしれない。だがこの三途の川を思わせる風景が、心の奥底にしまっておいた疑心暗鬼を退散させたのだろう。納得がいかない、というのはあまりにも自己中心的な考えでもある。そういう心の鬼が長年自分の中に巣食っていたと思うと幾分ぞっとさえする。

 恐山を訪れた時に感じた温かさというものは、凍った感情を雪解けのごとく穏やかに現れさせるぬくもりのようで、何物にも代え難い経験であった。すべての人たちに一生に一度は訪れてほしい場所として強くお勧めしたい。大きな喪失は誰でも経験していることであろうから。

 彼が亡くなった2010年はF1でもいろいろあった年だ。彼が愛してやまなかったミハエル・シューマッハは一度引退したが、この年メルセデスから現役に復帰した。だがその雄姿を見ることなく彼は去ってしまった。その後ミハエルに不幸な事故があったのはご存知の通り。何とも因果な年に亡くなったものだな、と後年思い起こされる。
 その年のF1のレースをすべてDVDに録画し、墓前に供えた。そんなものを供えたのは僕だけだったし、周囲には全く理解されなかったと思うが、まあそれでいい。二人だけがわかっていればそれで十分だ。

 彼の葬儀の時に知り合った彼そっくりの弟とはそれ以来の付き合いだ。彼の弟は陶芸家で、毎年益子の陶芸市に出店するため栃木を訪れる。奥さんとも仲良くなり、夫婦二組で出かけたりもする。一つの縁が終わるその瞬間に、ひょんなことから新しい縁が生まれることもあるのだ。彼らには二人の娘がおり、葬儀の当時10歳だった下の娘はもう20歳だ。その娘とは音楽的な趣味が合い、去年は一緒にライブに行ったりもした。よく考えると何とも奇妙な縁である。

 人の世とは常に何が起こるかわからない。生きている人間は生き続けることに全力を注ぐしかないし、亡くなってしまった人間が元に戻ることは決してない。努力が必ず実るとは限らないし、順風満帆なことなんてなくて、きっとどこかに落とし穴が奈落の底まで続いていたりするのだろう。
 それでも人間は、結果を受け入れるというごく単純なことがなかなかできないものだ。同じ場に身を置いているとついつい同じ考えに固執してしまう。だがふと場所を移すと、今まで掴んでは放さなかった考えが簡単に変えられたりもする。

 旅とは単なる契機でしかないのかもしれないが、きっかけは重要である。巷ではパワースポット云々ともてはやされているが、そんな流行り廃りに左右されない確かなものがここにはある。もう一度言うが、すべての人たちに一生に一度は訪れてほしい場所として強くお勧めする。その価値は間違いなくあるはずだから。

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