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「自然」に何を感じるか。再考してみる。
「自然」の壮大な景色に我々は何を感じているのか、ふとそんなことを最近考えたので思考の足跡を残しておこうと思う。
1. 「自然」という「儚い」存在
「自然」
それは人間が誕生した頃から当たり前のように存在している。歴史を振り返ってみると、文明の進化と共に人間は「自然」との関係性を変化させてきた。
時に畏れ、時に祈り、時に利用しようとする。その結果、文明の指数関数的な発展と共に自然は「儚い」存在になりつつある。
しかし、はたしてここで人間を批判できるのだろうか。人間による環境破壊さえも「自然」のサイクルの一環であると言えるのではないだろうか。
つまり「自然」と「人間」の関係性がどのような結末を迎えようとそれはサイクルの一環であり、受け入れるしかないのではないか。
2. 寂しいというより
私はよくYoutubeやNetflixの壮大な自然の映像に安らぎを求める。
家のテレビでそうした映像を見ていると母親が「寂しい気持ちになる」と言っていた。
たしかに映像自体はとても「寂しい」ものであり、言われるまでどんな感情でこの映像を見ているのか意識したことがなかった。そんな一言がきっかけでこの文章を書いている。
改めて考えると、そんな自然に対して私は「儚さ」を感じているのだと思う。
「儚い」とは「淡くて消えそう、もろくて続かない」という意味である。
もしかすると、本能的に「人間」と「自然」の結末を感じているのかもしれない。
3. この時代に生まれたということ
そんな「自然」に対して「儚さ」を感じる時代に生きるということは難しいことかもしれない。
しかし、この「儚さ」を少しでも共有できれば何か変わるかもしれない。
そんなことを思いながらこの文章を書いてみた。
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