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桐壺登場 その十二 限りとて…いかまほしくは命を語る

その十二 限りとて…いかまほしくは命を語る

 その年の夏、私は体調不良を理由に宿下がりを申し出ました。帝は「またか」という感じで、全く、とりあってくれません。それどころか「以前ならともかく、今では立派に御息所なのだから、そういうこともあるまいに」と言うのです。
 以前ならともかく?
 そういうこともあるまいに?
 どういうことか、言ってみなさいよ、さあ!、なんて気力、最早ありません。

 …私の前に現れた弘徽殿女御。
 あの日、あの時、そこに吹いた風。
 それは国風文化の風。

 私は生まれた時から二条の屋敷内を出たことがなく、今また宮中しか知らず、世の中とは書物の中に広がっているものでした。そんな博学と雅を謳歌していた私の眼前に現れた弘徽殿女御。ふんわりとした彼女の装束の着こなしを見た時、その袖の中を風が吹き抜けました。日本の風です。今、吹いている風です。こんな揺れ方、見たことありません。その風は魅惑な匂いを伴って、私の鼻先を通り過ぎました。
 その時、私は自分の時代遅れに気がついてしまったのです。
 百年?二百年?
 そりゃ、皆がチラチラ見て、クスクス笑うわけだわ!
 私は自分の黄ばんでごわついた紙の古さと、年月の蝕む独特な図書の匂いに、やっと気づいたのです。私が世界の最先端をきどって、古めかしい骨董品を読んでいる間、進んでいるのは皆の方だったのです。
 恥ずかしい。
 いいえ、それだけではありません。自分が生きているのはこの日本だというのに、そこに目を向けず、頭だけで雅を知った気になっていた私は、とんでもない辺境の鄙、都会かぶれの田舎者だったのです。
 みっともない。もうお家に帰りたい。
 でも許してもらえません。私の宿下がりの申し出に慣れてしまった帝は「いまさら」といった露骨な態度で、ため息まじりに
「体調不良というならば、ここで養生するがよい」
と仰って、典薬院に治療を御命じになりました。
 そうじゃないのに!
 帰りたいのに!
 すぐに医者が来て、診察し、薬が処方されました。しかし日に日に悪くなって、わずか五、六日の間に見る見る衰弱してしまいました。
 ほらね、体調不良、本当でしょ、いつだって本当だったんだから、嘘じゃないんだから。
 もう、呼吸をするのがやっとです。
 見かねた母が訴え込んできました。
「古来より病は加持祈祷で治すものです。娘の体をいじくりまわして変なものを飲ませないで下さい。すでに我が邸では僧侶たちが病魔退散の準備が万端整っております。息子の師匠が凄い有名な先生なんです。だから息子も凄いんです。娘も凄いんです。優秀なんです。ここで終わるはずがないのに!だから早く返して下さい!」
 意味不明なことを涙ながらに訴えた母のおかげで、やっと退出が許されました。
 光る君はここに残します。私と一緒にいて思いもよらぬ災難にあったら大変ですから。実際、あんなことやこんなことが起こり得るのが平安京、人の世ですから。
 このようにして私、桐壺更衣は人目を忍んで後宮を去ることとなりました。人目に晒される力、もう微塵もありません。

 帝には限りというものがあります。御寵愛の更衣とはいえ、見送ることもできません。
 可哀想な帝。
 それでもあなたは桐壺の殿舎まで来てくれた。しきりに何かを仰っている。
「天皇親政」
 後宮において然るべき後見がないという世にも稀な特質を持った妃は、天皇親政にとって欠かせないものだったのです。ただそれだけだったのです。
「よく来たね」
 然るべき後見のないあなたはそう言って、然るべき後見のない私をより孤独に磨き上げた。薄く儚く人工的に自然を模して。
「光るように美しい。これぞ我が子よ」
 それは後見がないから美しいのです。律令制の瓦解の音が聞こえます。
 どうしたの?あなた。そんな恐ろしい顔をして。泣いているの?
 あなたはきっと光る君を時期の春宮にするでしょう。天皇親政のために。私たちの革命のために。
 いや、まだ安心はできない。弘徽殿がいる。鏡に映った私。かつての私。皇太子妃だった私。
 私ならそうする。きっとそうする。中宮。国母。
 そうはさせない。それじゃあこの間違った世の中、何も変わらない。でも私は今、究極の切り札を持っている。

 限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 ここでこう言いさえすれば私の勝ち。さあ、できるだけ儚く言うのです。憐れに。死にそうに。命と引き換えに。だって、あの男、こういうのに弱いから。さあ!

「本当にこうなると分かっていたら…」

 これで私の死んだ後、あなたは光る君を帝位につけるでしょう。ほら、これがあなたの望みだったのでしょう。私たちの出会いのその最初から。
 だって、あなたは私を愛していない。
 私もあなたを愛していない。
 私たちは同志。比翼の鳥、連理の枝。
 革命のためなら死など怖くない。

 死?

 嫌だ、死にたくない、死にたくない、本当にこうなると分かっていたのなら、
 愛してるといえばよかった、
 あなたを愛しているといえばよかった、

 私の体が何か得体のしれない力に熱く強く包み込まれました。
「駄目だ!やっぱり駄目だ!行かないでくれ、私を一人にしないでくれ、こんなところで一人ぼっちにしないでくれ。もし、逝くというのなら、ここで逝ってくれ、私の腕で逝ってくれ。それを穢れというのならそんな世の中、クソクラエだ!」
 少し嬉しい。

 私は憧れの遣唐使船に乗っております。これが海、というのでしょうか。何という無謀な広さ。それにこの音。
 どどう、どどう。
 まるで御修法の声明です。一体、何千万人いるのでしょうか。私は増幅する振動になっていきます。
 おおお、おおお。

 静寂。静止。暗闇。
 私は荒磯障子の脇にうずくまっておりました。手長足長のお仲間のつもりでいたようです。
「お亡くなりになりました」
 どこからともなく響いてきた一声で、私は私が死んだことを知りました。
 でもそれっきりまたねむくなってしまいました。せいじゃく。くらやみ。む。
 

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