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桐壺登場 プロローグ

プロローグ

 私の父は大納言で死んだ。よくある話だ。
 私は数多の女たちの中に溶け込んだ。名前などない。
「私が死んでも娘の入内を」
 臨終の際の大納言が言う。繰り返し言う。しかし大納言は死ぬ。大臣になれぬまま。
 大臣であれば、大臣であれば、と。しかし大臣であろうとなかろうと、もう死ぬのだ。
 ああ、あの時、世の中がひっくり返らなければ、と。しかし世の中はひっくり返って、もう死ぬのだ。
 大臣であれ、大納言であれ、ひっくり返った世の中で、こうして力なく、無責任に死ぬのだ。それでも臨終の際の大納言は繰り返しそれを言う。
「私が死んでも娘の入内を」

 入内とは何か。
 女たちはそんなものは望んではいなかった。それを望んでいるのは男たちだった。男たちは女たちで社会を動かしている。いや、社会が女たちで男たちを動かしているのだ。ならば女は女で速やかに完結できるものを。

 女たちは何を望むのか。
 女たちが望んでいるものは日々のどこにもなかった。どこにも無いという確かな手応えが空しくあった。いたるところにあった。どこにも無い感触だけは日々あって何が無いのか誰も知らなかった。知らないことを知らなかった。
 女たちは歌を詠んでいた。そうしていつも何かを探していた。その証が、あの物語…。

「私が死んでも、何としても娘の入内を」
 それはもののあわれのせいではない。私は死にかけの男の目に、この墨よりも得体のしれない暗黒を見た。
 暗黒が私を見つめる。見つめられて私は見つめ返す。私には関係がないと思いながらお前を見つめ、いつしか私はお前を懐かしんでいたのだろう。光るように美しい、暗黒のお前を。

 臨終の際の大納言が言う。
「何としても入内を。そして宮仕えの本意を必ず、必ず遂げさせよ」
 男たちの司る政は一体何でできているのか。
 私は数多の女たちの中に溶け込む。名前などない。
 否。名前など、すでに意味がない。
 私は桐壺更衣。
 


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