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桐壺登場 その五 ありえない御寵愛の正体を語る

その五 ありえない御寵愛の正体を語る

 帝は御自身のことが何一つままなりません。全ては御自身以外のところで決せられていて、ただその御威光でもって輝くより御身を守る術がございません。
 そんな中、私の懐妊は帝を大層喜ばせました。そして当の私といえば泣いてばかりいました。幸せ気分の帝は私を笑わせようとして、返って私を苛立たせます。
 初めてお会いしたときに「よく来たね」と仰った帝は、真実、この私を待っていたのでした。しかし私は扇の陰で「ありえないものがよくも入内して来れたものだね」という風に聞いておりました。だってそういう流れでしたから。でも違ったのです。帝は真実、この私を待っていたのです。
 この御代において先帝に繋がる話は誰も致しません。ものの本にも一切、描かれていないはずです。そうして描かれていないことが雄弁に物語っているはずです。口にすることもできないような、何か、黒いことが起きた、ということを。そうです、皆さん、お察しの通りです。
 私は先帝の皇太子妃にと望まれていました。父は按察使大納言で、父の兄なる人は大臣でした。順当に行けば父もすぐに大臣です。ただ定員がつかえていて順番待ちなのです。時が来れば私は女御として皇太子の後宮へ。そしてときめき給いて、つまり中宮。国母。
 楽観的といえば楽観的。このあまりにも屈託のなさ過ぎる平安貴族の展望風景。
 私は私の十二の歳の裳着の式を思い出します。盛大でした。一人娘です。切ないまでの父の愛情です。忘れもしません。そこで私は女子の最上級の未来の姿を目の当たりにしたのです。
 ものの本には描かれていませんが、私は忘れません。私がそういうものであったということを。私は絶対に、いえ、私こそが忘れてはならないのです。
 先帝の皇太子様はどこに行ってしまったのでしょう。
 そんなふうに世の中が全力でなかったことにしてかかるそれを、帝は、そういうものであった私をこそ、待っていた、と言うのです。
 孤独な私たちは、世界が逆転する話を、やっと、思いっ切り、することができました。正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとか、そんなことに関係なく、思ったことを思った通りに言葉に組み立てることが許される、そういう相手に巡り会えたのです。共感も教訓も求めません。ときに単語が足りません。構いません。私たちは叫び声をも探求します。言葉も歌も思惟も認識も枷にはなりません。
 私たちは同志だったのです。
 これがありえない御寵愛の正体です。

 帝は私がいないと何もできません。人々は非難するけれど、私には分かります。こんな分かりやすいことはありません。 
 帝は御一人で輝いていらっしゃいました。しかしその輝きは御身を守るための輝きでした。帝には然るべき後見がありませんから。まあ、強力な後見がある帝なら輝く用もない、とまでは申しませんが、いえ、強力な後見がある帝というのもまた、それはそれで輝くことが返って危険なようでして。
 ともあれ、そんな帝の後宮には女たちがいて、その後ろには男たちがいる。でも私の後ろには何もありません。そんな私を帝は待っていたのです。
 ああ、おかわいそうな主上。
 帝は私といるととても落ち着くと仰いました。安心してお喋りできると仰いました。こんな話をしました。
「私たち、長恨歌になぞらえられているけど、一体どこが玄宗と楊貴妃なのだろう」
「ちっとも似てないよね」
「似てないよね」
そのうち可笑しくなって大笑いしました。
 実はずっと気にしていたのよね、この噂。私たち、同じだね。
 それで私たちの革命の合言葉は
「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝」
になりました。

 でもね、私が彼と辿った道、以前にも辿った女がいるのよね。ただの諸王の一人に過ぎなかった彼には、年上の頭脳明晰な彼女がいて、こんな風に甘くて苦くて恋みたいな道、きっと辿ったのよね。

 するとどういうわけか、彼と彼女、つまり帝と弘徽殿女御が玄宗と楊貴妃に重なって私の脳裏に浮かんでくるのです。
「私たち、長恨歌になぞらえられているけど、一体どこが玄宗と楊貴妃なのだろう」
 今、私に言ったこと、彼女にも言ったんでしょ。そうして彼女もこうしてお腹をさすっていたんでしょ。今の私と同じように。
 同じように?
 世界が逆転する以前、あなたが選んだ彼女は一体どんな女だったの?

 情緒不安定な私を哀れに思された帝は、清涼殿に程近い後涼殿を私の控えの上局として下さりました。そのために後涼殿に前から住んでいた何々とか言う更衣は他所に移されたということでした。
 私はぞっとしました。
 これで私の八つ裂きは決定です。
 女たちの恨みは如何ばかりでしょう。
 もう、汚物を撒き散らされたり、通路に閉じ込められたり、菱の実をまかれたり、水をかけられたり、火をつけられたり、土塊を投げつけられたり、背中に馬鹿って書かれたり、その他色々…などの比ではありません。怖いです。お腹の子が心配です。
 弘徽殿女御はどう思っているのでしょうか。彼女だけは私をいじめなかった。聡明な彼女はそんな低級なことはしませんから。そんな弘徽殿女御はこんな私をどう思っているのでしょうか。恥ずかしい限りです。
 安史の乱が頭をよぎります。今度は殺される私が楊貴妃に重なります。ああ、憧れの大唐帝国…。いいえ、それはなりません。私はこれにどう立ち向かえばよいのでしょうか。
 状況を整理してみましょう。
① 私のお腹には帝の御子が宿っている。
② 私には帝のありえない御寵愛がある。
③ そのどちらも世間によく知られている。
 そうよね。それしかないのよね。

「可哀想に。さぞ辛いことが多いのだろうね」

誰のせいよ。

「後宮は昔から女の嫉妬が渦巻く修羅場だと聞くが、いやあ、それにしても怖いね」

あんたのせいだよ。

「それにしても夕暮れ時って悲しいよね」

いい加減にしてよ。
男って何よ。
女って何よ。
新しい命って何よ。
誰か私に答えてよ。
私って何なのよ。

 もう世の中はうるさすぎて、少し静かにしてほしいのです。

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