見出し画像

『奇談・怪談・夢語り その九』

~世界の果ての蟻地獄~

逃げていた。
昼も夜も 
逃げていた。
草原を駆け抜け 山谷を越え 海原を渡り 逃げていた。
 
あいつ あいつが やってくる。
かわして いなして やり過ごしていたのに。
神出鬼没 奇々怪々のあいつが またやってくる。

僕の事なんかもうとっくに諦めたと思っていたのに 
ふいに 後ろから手が伸びてくる。
僕の髪に指先をからめ そっと耳に触れ 肩をかすめ通り過ぎていく。

油断してはいけない。
あいつは また引き返してくる。
耳障りなノイズのような声で囁きながら。
「さあ 今度は どこまで逃げられるかな」

僕は懸命に逃げる。
息も絶え絶えになり 足を取られてよろめいても逃げ続ける。
あいつが立ち止まることを許さないから。

なぜ追われているのか いつからなのか やつの正体は・・・ 
わかっていたはずなのに 逃げることで精一杯で
いつしか記憶がおぼろになり 僕は考えることを放棄した。

追われ追われて 逃げに逃げ 
気が付けば 目の前は 見渡すかぎりの砂漠だった。
そこは草一本 木一本見当たらない荒涼とした世界だった。
 
あいつの視線を感じる。
「ふっ ふふんっ」含み嗤いも聞こえてくる。
隠れようのないここで どうやって逃げたらいいのか。
空は薄曇り 昼間なのか夜になろうとしているのか判然としない。
途方に暮れて足を止めたそのときだった。

「ザザーッ」
足元が崩れ始めた。
突然のことにかわす間もなく そのまま足を取られた。
流砂に吞まれていく。
「ふっ ふふ ふふふふっ」また嗤う声がする。
四方に目をやると 今まさに 
周囲が大きなすり鉢状に崩れていくところだった。
 
ここは蟻地獄だった。

蠢く触手がはるか下に見え隠れしている。
この規模なら待ち構えているものも相当だろう。
そうかあいつは ここへ誘い込むことが狙いだったのか。

引き込まれていくこの躰は 待ち構えているものに捕らえられ
鋭い牙から注ぎ込まれる消化液で 内側から溶けていくだろう。
そうして溶けていく先から吸い取られ
僕は跡形もなく消え去ってしまうのだ。

もがけばもがくほど深みにはまっていく。もう底が近い。
これではどうしようもない。どうしようもないのだ。
絶望に打ち震えていたはずなのに 底にたどり着いた途端 
思わず「ほーっ」と吐息が漏れた。 
むき出しの足や腕に軋む砂が なんだかとても心地良かったのだ。 

見上げるといつの間にか月が 緋色に艶めかしく輝いている。
聞こえてくるのは ときおり風に巻き上げられる砂の音だけ。
潜んでいたものが 僕のふくらはぎを探り当て 捉えた。
首まで埋まった僕は もう逃れようがない。
思わず空に向けて両手を伸ばした。
誰に助けを求めてる?月にか?

と 諦めて力尽きた僕の両手を誰かが掴んだ。
そのままゆっくり引っ張り上げられていく。
「まだだ まだだよ。これでおしまいだなんて 面白くないじゃないか」
あいつだ。
「いや これで勘弁してくれ 頼む もうおしまいに してくれ」
僕は懇願する。 

あいつは僕の顔をして微笑んでいる。
「まあ 月の綺麗なこんな夜に 死んでいくのもいいかもしれないね。 
誰も知らない世界の果ての この蟻地獄のなかで」

呟いたのは 僕なのかあいつなのか。
なのにそのすぐあとで 掴んでいた手をあいつは離した。
 
そこでようやく目が覚める。
 
「これが この頃 毎晩のように見る 僕の夢です」
横たわる寝台の上で 枕元から覗き込む白衣の彼にそう告げた。

僕は彼の 黒縁メガネの眼に見覚えがあった。

 了


拙作にご高覧たまわりありがとうございます。
楽しんでいただけましたら幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?