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『笑う 河童』
はじめに
・これは遠い昔、貧困飢饉にあえぐ日本のとある地方の物語です。
これもひとつの河童伝説なのです。悲しく残酷な物語ではありますが、もう二度とこんなことが語られないよう祈りをこめ、これにて追悼とさせていただきます。(写真はイメージです。うちのカエルたち)
『笑う 河童』
そのときぼくは、なにが起きたのかわからなかった。
霜がようやく消えた村はずれの川の土手で、フキノトウをみつけたぼくが手を伸ばしたその瞬間だった。
後ろから押されそのまま水の中に真っ逆さま。
頭をあげるとほんの一瞬、父さんの顔が歪んだように見えた。
それは水しぶきがかかったせいだったのか、それともぼくを突き落とした父さんの苦しむ表情だったのか。
「おばあも、おじいも待っている。安心してあの世へ、ゆくがええ」
瞬く間に凍え、虫の息になっていくぼくを見下ろし、父さんは背を向け行ってしまった。
春はもうすぐそことはいえ、雪解け水はあまりに冷たく流れは速かった。
つかんでいた細い茎が抜け、ぼくの手はむなしく宙をかき、
「とう、さ・・・ん」最後のことばも風にきえた。
どこかで、こうなることはわかっていたよ。
3人の男兄弟の中でいちばん非力でひ弱で病がちなぼく。
手がかかる赤んぼの妹もふたりいた。
「土筆を、とりにいくぞ」
朝も明けきらないうちにぼくだけ起こされ、そして父さんはぼくをつれて家を出た。土筆なんて、まだ先なのに。
もがくことも、助けを呼ぶこともせず、ぼくはただ流れに身を任せた。
それがみんなのためなんだ。
隣の家のあの子もそうだったんだと、今気がついた。
突然姿を消した、おさよちゃん。
いつもいっしょに遊んでいたね。
動きの遅いぼくをじだんだ踏んでせかしていたね。
「のんびり、のんびりの、のんびり屋さん。
はやく、はやく、はやくしないと、おいてかれっちゃうよ」
会えなくなって悲しかったよ。
「河童に、さらわれた」
そうおじさんはいってたっけ。
だれも河童を見たことはなかったけれど。
そして今ごろ父さんも、家に帰ってみんなにそういうのだ。
「あの世」とは良いところなんだろうか。
年寄りや、長く患っていたものが行くところだと思っていた。
だけど三途の川を渡るには、手前で待っている奪衣婆《だつえば》にお金を渡さなけりゃいけないと、おばあはいってた。
地獄、極楽を決める閻魔《えんま》さまは怖い顔だけど、とてもやさしいお方だとも話していたけど、ぼくはそこまでたどり着けるんだろうか。
流され、流され、沈んで、沈んでいくうちに、体の感覚が消えた。
と同時にこれまでのぼくの何もかもが消えていく。
記憶の欠片が水に溶けていった。
気を失いそうになったそのとき、遠くからなにかが近づいてきた。
大きな大きななにかが。
するっとぼくを包み込んで行ってしまった。
とたんに、ふっと体が軽くなった。
そっと、目を開けてみた。
そこは、相変わらず水の中だった。
ただ、温かい光が上から差し込みゆらめいている。
ここが「あの世」とやらなのか。
すぐ目の前を、ゆっくり鮒が横切っていく。
小さいのや大きいのが連れ立って優雅に泳いでいく。
ゆらゆら、水草もゆれている。
さわさわとなにかが足先にふれた。
目をやると、転がっているいくつもの石ころの影に、いっせいに小さなカニがかくれた。
「あっ、サワガニじゃないか」
いっぱいとっていっぱい食べたかったな。
でもいつもすぐ逃げられてばかりだった。
いつも?ええっと、それは、いつのことだっただろう。
思い出せない。
「こぽっ、こぽっ、」と音がする。
ぼくの口から吐き出される泡ぶくの音だ。
じっと耳をすませてみてもほかに音はない。
差し込んでくる光はきらきらしてきれいだ。
静かな、それは静かな水の中だった。
きらきらした光をつかまえようと手をのばしてみた。
「あれっ」ぼくの手はこんなだっただろうか。
細い棒のような緑の腕の先に奇妙なものがついている。
ああ、でも、これがとても具合よく動く。
水をかくと、体が軽く浮き上がっていく。
「ぷはっ、」
一瞬で明るい光の世界へ飛び上がっていた。
ぼくはいったい、どこへ行こうとしていたのだろう。
どこへ行くことになっていたんだろう。
やっぱり思い出せない。
大岩の上に着地し「ふうっ」と息をつく。
そこへ「どどどどっ、どどどどっ、」と轟く音がする。
顔を向けた先に、遠く水しぶきがあがっている。
ぼくは足を踏み出した。
なんだか呼ばれているような気がしたのだ。
二本の足もやっぱり緑色で、足先には掌と同じものがついている。
「ぺたっ、ぺたっ」と歩くたびに音がする。
それがとても面白くてむやみに行ったり来たりしてみた。
なんだか楽しい。
木々に囲まれた水の流れと、それを縁取る大岩小岩をぴょんぴょんはねながら進んでいく。
水音がどんどん近づいてきた。
ひと際大きな岩を越したら、黒々とした淵に落ち込む大滝の下に出た。
のぞきこむと、淵は光をのみ込み底が見えない。
ゆらりと、大きな影が動いた。
ぶるっ、と体が震えた。
ぼくのいた流れはここに続いていた。
あの流れをさかのぼることもできたのか。
「りゅうが、ふち」
ふいに口から出たそれは、だれが教えてくれたのだっただろう。
そう、ここは水辺に生きるものを守る、龍神さまの住む淵だ。
だれもがそう呼んでいた。
だれもが・・・。だれもがってそれはだれだったのだろう。
それでも、ああこれでもう大丈夫とぼくは確信した。
ここに、ぼくを待っているものがいる。
呼んでいるのだ。ぼくを呼んでいる。
そうずっと聞こえていたのだ。ささやく声が。
「さあおいで、ここがおまえの永遠の世界」
それが徐々に大きくなっていた。
恐怖心はもう消え去っていた。
ためらうことなくぼくは淵に飛び込んだ。
光の届かない底の底目指してぼくは手足を動かした。
深い深い水の底は光のない世界だと思っていたのに、ぼんやり、ぼんぼりが灯っていた。
ガヤガヤ、なにやらさわがしい。
「おおおっ、やっと、来た、来た」という声がする。
「しいっ、」と、だれかが制止する。
いくつもの緑の影がゆれる。
大きさはまちまちだけれど、似たようなつくりの異形の顔かたち。
いったいどれだけのものたちがここにいるのか。
いちばん前にいたちいさいものが駆け寄ってきた。
「遅かったね。龍神さまはすぐに帰ってきたよ。
もっと早くこちらへ着くと思っていたのに、
やっぱり、のんびり屋さんだ」
待ちくたびれて怒っているような口ぶりだ。
どこかできいた声だった。
それはなつかしい声だった。
「よく来たね。待ってたよ」「よう来た、よう来た」「やっと来たな」
あちこちから声がかかる。
「ここは、”あの世”、なの?」
かすかにぼくのなかに残っていた言葉が口をついて出た。
そこにいるみんなが笑った。
「うううん、ちがうよ。
ここは、人知れず生きる、あたしたち、あやかしの世界」
みんなが、笑っていた。
了
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