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本人訴訟

本人訴訟とは、弁護士などの訴訟代理人を立てずに裁判所へ自分で訴えを起こすことである。日本の民事訴訟は、弁護士強制主義を採用していないため、第一審から最高裁まで通して簡易裁判所から最高裁判所までの、どの段階でも自分一人で行うことができるという。正直私は、裁判所には(裁判員裁判はべつとして)『一生に一度も足を運ぶことはないだろう』と思っていた。基本的に、法律の事はズブの素人である。そんな私が、本人訴訟を起こしたのだから、世の中とはよく分からないものだ。

本人訴訟を起こすにあたって、知人のJさんが力を貸してくれた。弁護士がつかないとか、弁護士に支払う費用が無い場合、最後の手段として『自分で訴訟を起こすことが出来る』というのだ。Jさんは、嵐の中で激しい篝火を掲げ叫んでいるタイプの人間だ。2009年2月の上旬。私は、4年間派遣社員として働いていた関東のある大企業を雇用期間終了となって、盛岡へ帰って来た。それから半年後の8月下旬。派遣先の元上司の携帯へ電話をかけた。在職中に受けたセクシャルハラスメントについて謝罪を求めるためだ。『盛岡に来てキチンと謝罪して欲しい』旨を伝えた。これに対して相手は『大人と大人の合意だった』等と言い逃れをする。以後、何度も電話でやり取りしたが、相手は『悪かったよ』とは言うものの『申し訳なかった』の一言もなく、逆ギレして『名誉毀損として訴訟を起こすことも検討する』と弁護士を通じて返事を寄こした。10月下旬。中ノ橋にある【プラザおでって】建物内の『女性センター』に相談した。こうした場合、どのようにして相手に謝罪させられるのか聴きたかったのだ。センターの担当者が親身に耳を傾けてくれて『これは、弁護士先生の意見を聴いた方が良いのではないか。それで宜しければ』と法律センターを紹介し予約を取ってくれた。大通りの【サンビル】建物内にある『法律センター』では無料で弁護士が相談に応じてくれ、訴訟が行なわれる際は代理人となるが、この件は『3年の時効に近い』『証拠が不十分』との事を告げられた。以後、何度かやり取りしたが『勝訴に乏しい』という理由で弁護を引き受けてもらえなかった。資料を見る限り『セクシャルハラスメントがあった可能性があるものの音声や映像による証拠、第三者の証言がない。セクシャルハラスメントをしたとされる元上司が合意だったと否認している』というのが弁護士の見解の様だった。元上司のフルネームと本人の乗用車のナンバー、携帯電話の番号は知っていたが、現在の住所と職業は分からない。初歩的な部分でさえ準備不足だった。退職後の勤め先と住所、架設電話の情報を得るために手を尽くしたが所属していた人材派遣会社と派遣先の大企業は個人情報保護法を盾に教えてくれない。早い話、興信所や探偵事務所等に依頼して突き止めればいいのだろうが、費用が30万円もかかってしまう。いっその事『有料の弁護士に頼むべきか』等と考えたが仮に依頼するにしても訴訟相手の住所が分からなければ話にならない。そこで私はJさんへ『何か良い知恵はないですか』と尋ねた。Jさんは、こんなアドヴァイスを教えてくれた。『図書館で住宅地図と電話番号名簿を調べてみたらどうか』と。住宅地図には世帯主の名前が記載されている筈だとJさん。早速、県立図書館で調べたが住宅地図は県内版のものしか置いていなかった。関東圏の電話番号名簿をめくると元上司の名前と同じものが見つかった。しかし派遣先の大企業からかなり離れた位置の住所なので『これは違うな』と考えた。『迷ったら原点に立ち返ればいい』とJさん。再度セクシャルハラスメントの加害者へ電話をして『手紙を出したいので現住所を教えてもらいたい』と要求した。電話のやり取りは証拠を残すためにICレコーダーで録音した。すると相手は『自宅の住所は教えられない。友人が住んでいる所へ送ってくれ』と関東圏のあるビルの住所を指示した。手紙を書いて出した後、相手との電話が急に通じなくなった。手紙を出した直後に相手から『弁護士を立てて名誉毀損で訴えることを検討する』旨の手紙が来た。住所だけは記されてなかった。私は、人材派遣会社と派遣先の大企業宛に書留で手紙を送った。在職中に遭ったセクシャルハラスメントの被害を訴え雇用主として事実関係の調査と謝罪を求めるためだ。慌てたセクシャルハラスメント加害者が一人の弁護士を立てた。加害者の弁護士が『今後のことは依頼者を代行する』旨の文書を送ってきたのだ。弁護士を立てられた以上、元上司との直接的な話し合いは不可能である。では元上司が指示した『友人が住むビル』とは一体何処なのか❓知る手掛かりは、ただ一つ。現地へ直行してみるしかない。10月中旬。2日間の仕事の休暇を取り横浜市立図書館へ向かった。『木の葉を隠すなら森の中』とは明確な古語だと思った。神奈川県の総人口は約900万人超。約300万世帯の中から【ただ1人】を探し出さなければならない。近年では住宅地図に世帯主がフルネームで掲載されず、名字のみの世帯が圧倒的である。加害者の苗字は多数あるが費用と限られた時間の中で【ただ1人】を特定するのは天文学的な奇跡だった。『通勤に要する時間は1時間以内に絞ればいい』とJさん。『管理職だったから遠くに住んでいる筈がない』と見当し探す範囲を絞った。すると加害者と同姓同名の世帯主がいた。大企業から車で10分間ほどの距離に位置する。『ここに違いない』と目星を付けた。自宅住所をメモして電話番号名簿をあたった。苗字と住所が一致している電話番号を調べて架設電話の番号も判明した。続いて加害者へ手紙を出した先の『友人が住むビル』を地図で探し入居している会社を特定した。元上司が『友人が住むビル』と答えた場所は、なんと『人材派遣会社』だった。大企業を退職後に天下りしていたらしい。まず元上司の自宅と思われる家へ電話をかけた。 『はい。◯◯◯◯で御座いますが‥』             女性の声だ。                                              『以前、✕✕✕✕会社に勤務していた者ですが、課長さんは御在宅でしょうか』              『知りません。全く関係御座いません』          若いような、老けたような艶のある声だ。この声の持ち主は一体誰なのか。『知りません』という応えは少し変だ。本当に家はここなのか。現地で確認しよう、という事になり直ぐに電車に飛び乗った。現地の駅からタクシーに乗って加害者の自宅と思われる家の近くで降りた。加害者の自宅の表札は苗字のみで、最近新しい物に取り替えたようにも見える。周囲を一周してみた。車庫に乗用車が一台あった。が、私が知っている車とは違う。元上司の乗用車は日本製の新車だが、この車はM社のロータリー車である。                                  『M社のロータリー車に乗ってみたい』         と言っていたことを思い出した。早くもロータリー車に乗り換えたのだろうか。それとも『直接そちらへ行きます。話し合いに応じて欲しい』と電話で伝えていたので代車をカムフラージュに置くという偽装工作か。元上司は自宅に『飼い犬がいる』とも言っていた。それなのに犬小屋が無い。第一、犬小屋用のスペースが自宅庭には無い。『飼い犬がいる』と言っていたのは何れこうなる事を予見した芝居だったのか。近所の商店や食堂等で然りげ無く『✕✕✕✕会社で課長をされていた方をご存知ないですか』と尋ねてみたのだが『よく分からない。この辺りは△△△△会社の方が多い』という返答しか無かった。すぐさま駅に戻り再び電車に飛び乗った。向かう先は加害者が『友人が住むビル』と言った『人材派遣会社』だった。元上司が、その『人材派遣会社』に勤務している事を確認するためだ。建物を確認した後、公衆電話から電話をした。仮名を名乗り加害者を呼び出した。                          『少々お待ち 下さい』                                  受付の女性が応えて、誰かへ『電話です』と告げた。数分後、相手が電話口へ出た。紛れもない私にセクシャルハラスメントをした相手である。                                                      『はい…』                                                     怯えているような神経質な声だ。声さえ確認できればいい。すぐさま電話を切り、最終の新幹線で盛岡へ戻った。                                 翌日、Jさんは次に打つ手をアドヴァイスしてくれた。『今度は派遣先の仲間に御協力をいただいて第三者の証言を書いてもらったら如何ですか』と。目を瞑って、一本の細糸を小さな針の穴へ刺すような難しい事だと思っていたが、いざ訴訟となれば第三者の証言を出さないと証拠不十分と言われかねない。派遣の仲間へ手紙を書いて出した。                       ある日の午後。自宅の近くをウロウロしている女性がいる事に気付いた。見かけないスーツ姿だ。携帯電話を掲げ、何やら私の自宅を撮影しているようにも見えた。我が家には他人から撮影されるような価値あるものは無い。僅か数秒で撮影した画像をメールで相手側に送信できる時代だ。大企業を相手にしてセクシャルハラスメントの被害を訴え、調査と謝罪を求めているという事実を改めて思い知った気がした。煙草と珈琲と正露丸を飲む毎日が続いた。                                              『気にしない方がいい。近くの冠婚葬祭業者が営業に回っているだけのことかも知れない』                                                             と、Jさんが励ましてくれた。派遣の仲間は本人訴訟に否定的だった。『証言はするが早く忘れろ』『いい人でも見つけろ』『そんな暇があったら別な事に労力を使え』等など苦言してくれた。否定的であったにも拘らず数日後、派遣仲間から手紙で第三者としての証言が寄せられた。再び希望の光が見えてきた。        盛岡地方裁判所の構内には、樹齢360年を超える石割桜がある。花崗岩の割れ目から生える太い幹には数多くの枝が生え、溢れんばかりに咲き広がるエドヒガンザクラの前で、 『これがあるから誰もが裁判をする権利があるんですよ』とJさんが、日本国憲法の第十四条を指示した。                                             ―全ての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない―                                                     セクシャルハラスメントを行った相手は、名誉毀損で訴えることを検討していると通告してきたにも拘らず、訴訟を起こそうとはしなかった。                                                          『名誉毀損で訴えてくるかと思っていたのに、何もしてこないのは何故だとお考えですか❓』                                                            『それは、自らに非があることを分かっているからなのです。訴えられないようにするための脅しだったのかも知れませんね』                 最初は、弁護士に頼んで訴訟を起こすことしか考えていなかった私だったが、準備を整えて本人訴訟へと前に進んだ。2011年3月11日(金)の東日本大震災から2か月後の5月17日(火)。満を持して訴状を提出して受理された日である。







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