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ロカストリレー連載①伏見瞬「無駄を共有、バイブスあげあげ!の巻」

 ロカストプラスでリレー連載をすることになった。今、編集部員が12名。4月からはじめて、一ヶ月に一回書くことで、3月にひと回り。まぁ全員がちゃんと書いてくれればですが……。というわけで、編集長だし、私からスタートです。

 おさらいになるが、ロカストはずっと「群れ」を一つのテーマにしてきた。これは批評再生塾での経験に基づくテーマだ。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第三期の同期生を中心として、結成されたのがロカスト。批評再生塾は、ゲンロンが運営していた批評を学ぶ場で、およそ二週間に一度お題が出され、提出した批評文で参加者が競い合っていく。毎回の講義&発表は夜7時半から4〜5時間に及び、その後居酒屋で毎度打ち上げがあり、始発の時間まで延々と話し合う(始発が出た後も昼近くまでデニーズで話し続ける連中もいた。俺もいた)。各人が書いたものにそれぞれがコメントし、それぞれが悩みを相談したり、次の課題の対策を練ったり、興味ある対象について話したりする。そんな濃密な時間から生まれる異様な蠢きを、批評再生塾の参加者で総代となった渋革まろんは「イナゴの群れのようだ」と形容した。ロカスト(LOCUST)という名前はイナゴの英訳である。
 全員で旅行に行って、文章を書くというアイディアも、集団の思考と感覚が濃密に混ざり合う「群れ」の運動を起こすために出てきた。まぁ、コンセプトを考える以前に、再生塾のみんなに「本つくるとしたら何したい?」と聞いたら「~~~に行きたい」みたいな答えばかりだったので、「じゃあ旅行行きゃいいじゃん!」となったという具体的な前段もあるのだが。 

 ここからが本題なのだが、私は正直「群れ」がどうでもよくなっている。「群れ」が間違っているとか、孤独こそが大事だいう話ではない。「群れ」が大事なのが当たり前すぎて、どうでもよくなっている。人同士が思考と感覚を共有して新しいものを生み出す、そのために長い時間を他人と一緒に過ごす。他人と濃密な時間を分け合う。それはほぼ確実に「濃厚接触」を伴うのだから、コロナ禍以降実際的には難しくなっているけれども、「群れ」の思考は理念として一般的に支持されるだろう。一般的に受け入れられているものを前面に押し出してなにになるのか。わざわざコンセプトとして喧伝せずに、粛々と淡々と「群れ」を作る活動を行っていけばいいではないか。なんだか、「健康であることは大切です」とか「視野を狭めないためにいろいろな人とコミュニケーションをとりましょう」とか、そのくらい当たり前のことをわざわざ大げさに主張しているのではないかという気分になってくる。
 とはいえ、「群れ」を手放す気にもなれない。「群れ」という言葉自体は、なんだかいい感じの響きだからだ。私は「群れ」という言葉を手放さずに、どうすれば面白いものとして活かせるか、迷いながらこの文章を書いている。今現在、自分が立てた問いに対する答えはない。次にリレーエッセイを書いてくれる人たちに、それぞれの答えを出してほしいと勝手なことを思っている。

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