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喧嘩の仕方を蓮實重彥に学ぶ。批評と言語行為とメディウムにまつわる重めの夜話|LOCUST vol.06刊行記念トーク(2/2)

LOCUST vol.06の刊行を記念して数回にわたって実施されたTwitter Spaceでの刊行記念トーク。新刊宣伝のつもりで話しているのに毎度本誌の内容を逸脱し、宣伝の域を超えた密度の話が展開されるに至ったため、トーク最終回の内容を座談会記事としてお届けします。
蓮實重彥・宮川淳とメディウムの問題、ファンカルチャーと批評、前衛運動とエコロジカルな自然観、そして有用な喧嘩の作法などなど話題は多岐にわたりました。メインスピーカーはLOCUST編集部の伏見瞬および南島興、さらに終盤ではvol.06執筆者の文筆家・三宅香帆さんも加わります。(編集・構成:河野咲子)

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前衛の無効化とエコロジカルな自然観

南島:最近ハンナ・アーレントのことを考えるんですけど、彼女が公的領域として考えるのは、古代ギリシャの(私的な領域に隠されている女性や子供ではない)成人男性たちがポリスに参加して、議論を交わす政治の場所のことです。そこで、アーレントは「現れる」という表現を使います。人が隠れているのではなく、何者かとして現れるのが、公共的な場所の条件なんです。

ただ、アレントは「現れる」ことを直接的なものとして書いているように思いますが、そこにメディウム・媒介物があるのではないでしょうか。姿が現れるようになるには、物体に対する被膜のようなものが必要なはずだからです。なので、いまアーレントの政治論をメディア論的に読むと面白そうだと思いました。さっきのバッファに引き寄せれば、そのような媒介物の場としてロカストの活動を位置付けられるかもしれないです。

伏見:メディウムについていえば、自分も連載で蓮實重彥について書いているけど、蓮實重彥はとても唯物論的、メディウム的な発想の人です。スクリーンやカメラといった物質によって映画が成立することを重視している。彼は美術批評家の宮川淳から薫陶を受けていて、宮川的な記号体験を映画と小説の世界でやるんだと、宮川の著作集の書評で宣言しているんですね。

美術でいえば、フォルムからメディウムの時代へという変化があります。ジャクソン・ポロックなどのアクション・ペインティングを、当時の批評家は魂の発出というような言葉で語っていた。彼らにとっては、「何を描くか」が全てなわけです。しかし、そういったフォルムに固執した捉え方をすると、時代が経てば、その行為自体が結局は様式に回帰されていき、やがて無効化される。しかし宮川は、ポロックのような作家は「何を描くか」ではなく、「何に描くか」という問いの中にいると考えた。つまり、絵筆やキャンパスといった、メディウムこそが絵画の条件である。「フォルム」から「メディウム」への転換が60年代の世界で起こりつつあると、宮川は書いたんです。

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