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ロカストリレー連載⑦ 河野咲子「旅行者たちのナラトロジー」

1. 二度目のイントロダクション

この文章を書き始めたのはいまから数ヶ月も前、LOCUST vol.06の福島旅行を終えてしばらく経ったあとのことだった。

書きかけだった(といっても大した量は書かれていない)このテキストには過去のわたしによってすでに以下のように(いくぶん大仰な……)タイトルがつけられていたのだが、いまとなってはそのとき考えていたことの半分も覚えていない。

ロカストリレー連載⑦ 河野咲子「一人称多視点の批評:問題含みの私小説、あるいは遅延した戯曲としての」

それでも、この文字列の意味することにしたがって議論をたどってみようとするのはそう悪いことではないような気がする。もともと企図していた内容を元通り思い出すことは、きっとできないに違いないけれど。

これは二度目に書きはじめられた原稿ということになる。とはいえ一度目に書いたものの続きを書き継いでいるわけではなく、かつて書いたテキストは(タイトルおよび本文のほんの一部をのぞいて)たったいまそのほとんどすべてを削除してしまった。この原稿のタイトルもさしあたりずっとシンプルなものに変えてしまいたいと思う。

ロカストリレー連載⑦ 河野咲子「旅行者たちのナラトロジー」

2. 形式のためのわたしたち

まずは、私的ないきさつについて少し触れておかなくてはならない。ロカスト編集部員の大部分(おそらくわたしを除いた全員)は、ある批評スクールに通っていた同期生であったのだという。けれどもそこで過ごされた時間の記憶をわたしは持たず、ゆえにそこに端を発しているらしい「群れ」のコンセプトについても、もしかしたらたんなる制作集団/コレクティブ以上のものとしてはいまだに理解できていないのかもしれない。ただ、いま思えばそのことを引け目に感じたことは一度もなかった。

いかにしてより良い共同体を構築してそれを維持するか、いかにだれかと関係を取り結び、思考を共有し、そしてほどよく切断されていることができるかということをだれもが真剣に考えるし、その問いはいつでもとても公共的で重要であるように見えてしまう。もちろんそういった営みに関するコミットメントも実際的には必要ではあるけれど、決して第一の価値ではない。

わたしは、旅行誌というものにふくまれるテキストの形式のことをずっと考えたかったのだと思う。書き手というものはあまねくことばの形式に従属しているのであり、わたしたちが集団として書いていることは形式のために要請された方便にすぎないのだとしたら。もちろん、経緯としては集団の存続を目的として旅行誌というフォーマットが選択されたのだろうけれど、いかにしてわたしたちが関係すべきか、もはや書き手の過去を起点にせず自由に考えることもできるのだと思う。そして「群れ」の正体は、案外わたしたちのほうではなく、旅行誌という語りの「形式」のなかに潜んでいるということがありえなくもない。

3. 頭のなかでさいころを振る

(もちろんわたしも例外ではなく)ほとんどのひとは、良い小説を書くことができない。だれしも頭のなかで賽子を振るのが苦手だからだ。真にすぐれたフィクションの書き手がいたとすれば(そんなひとは実在しないとしても)その条件は、じっさいにその手に賽子をにぎらずとも、あるいはペンやキーボードすら持たずとも自在に経験世界を記述することができるひとのことだろう。

ロカストリレー連載⑦ 河野咲子「一人称多視点の批評:問題含みの私小説、あるいは遅延した戯曲としての」

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