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ロカストリレー連載②寺門信「植物のような集まり」

 新年度を期にスタートした、ロカストプラスのリレー連載。編集部員が交代で、月に一度エッセイを執筆します。第2回の担当は寺門信です。

前回の記事(担当:伏見瞬)はこちら

 しばらく前になるが、エリック・クリネンバーグ『集まる場所が必要だーー孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』(英治出版、2021年)を購入した。同書では、図書館や学校などの社会的インフラが整備されている街とされていない街における、犯罪発生率や自然災害時の死亡率の比較などを通して、コミュニティにおける人的交流の重要性と、その人的交流を支える物理的なインフラの必要性が繰り返し説かれている。「共同性」や「公共性」といった、ソフトなパワーが重要だという主張自体はありふれたものだが、ソフトなパワーが効力を発揮するためには、社会的インフラというハード面の整備が必要だとする観点は、同書を他の類書から際立たせる特徴になっている。
 この書籍を手に取ったのは、タイトルの潔さに惹かれた部分が大きい。「集まる場所が必要だ」という主張に共感を覚えたことも、理由の一つだ。しかし、集まりの必要性を説く主張を前にした時、共感と同時に、どうしても疑わしい気持ちを持ってしまう。なぜなら人と人の集まりに対して、排他的であったり、胡散臭いと感じることもあるからだ。
 ロカストもまた、一つの集まりである。それゆえ集まりが持つ功罪と無関係でいることはできない。しかしロカストにおいて特徴的なのは、その活動を説明する際に用いる言葉が、「群れ」であることだ。例えば編集部で話をしていても、ロカストの活動を説明するのに「共同性」「公共性」といった言葉が挙がることはあまりない。そしてそれは、一見表面的なことだが、意外と重要なことだと思う。というのも先に挙げた「共同性」や「公共性」は、これまで蓄積されてきた色々な意味を含み持ってしまう、手垢のついた言葉だからだ。
 それでは、ロカストの活動は「群れ」の思想を体現するために行われているかと言えば、必ずしもそうではない。少なくとも、私はそうではないと考えている。むしろ、不連続に生じる諸々の活動を、「共同性」といった便利な既存の概念に頼らずに、どのように捉え、考えるべきかを模索するための、一つのツールとして、「群れ」というキーワードが機能しているのではないかと思っている。だとすれば、ロカストの活動を説明する概念として、「群れ」以外の言葉を用いることもできるのではないか。今回はそのための概念として、「庭」(※1)を提案してみたいと思う。

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