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絵本から経済を考える 第2回  「欲望と消費と満足と『の』の話」  谷 美里

 先日私は、書店でたまたま見つけたjunaidaの『の』という絵本を買った。「わたしの/お気に入りのコートの/ポケットの中のお城の/いちばん上のながめのよい部屋の/王さまのキングサイズのベッドの/シルクのふとんの海の船乗りたちの/ふるさとの島の灯台のてっぺんのサーカス小屋の……」という風に、様々なものや人々、場所や時代が「の」で繋がっていき、読者である私たちは、美しい絵の連なりに乗せられて、思いがけない接続をなす世界の最奥へずんずんと突き進み、「鳩時計の鳩の小部屋の午後のお茶会」や「銀河のはての美術館」までをも巡り、最終的に「学校の教室の窓の外の/風の通り道のいいにおいのもとの/野の花の帽子の女の子の/お気に入りのコートの/ポケットの中の/わたし」へ終着する。つまり、絵本のはじまりに戻って終わる。そういうカラクリの絵本だった。ページを捲るにつれ、世界はどんどん小さくなりながら、同時にどんどん膨らみ、私の脳みそは、次第にこのアンチノミーを抱えきれなくなってシンシンと音をたてはじめた。こういう脳みそが予想外の運動をさせられる絵本はいいなと思い、私はそれを買った。買って、満足だった。
 私は『の』という絵本を欲しいと思い、だからそれを買い、そして満足を得た。「欲望-消費-満足」という、感情と行動の連なり——これはごく普通の、ありふれた購買行動である。そう、私はいま『の』の話ではなく、経済学の話をしようとしている。だから実を言えば、ここで『の』の話をする必要はなかったのかもしれない。『の』の代わりに、最近買った洋服やワインの話をしてもよかった。それでも『の』の話をしてしまったのは、あらゆるものを連ねていく「の」の魔力に私が取り憑かれているからで、だからこの文章もきっと、経済学の話をしながらも結果的に、「の」の接続の話をすることになってしまうのではないかと思っている。おそらくは。

junaidaの

junaida(2019)『の』福音館書店
https://www.amazon.co.jp/の-福音館の単行本-junaida/dp/4834085309/

 さて、そこでまずは経済学の話。経済学は、その成立の初期段階で、客観的かつ科学的な学問たることを望み、ゆえに「欲望」や「満足」といった主観的な感情ではなく、「消費」という客観的な行動を基盤に理論を構築する道を選択した。経済学では、生活者の経済行動を記述する際、「消費」という客観的事実のみに焦点を当てる。そして、あるものが「消費」されたという事実から、その人がそれを「欲望」していたこと、同時にまた、そこから得たはずの「満足」についても知ることができる、と考える。確かに、大方の消費行動はこれで問題なく記述できるかもしれない。しかし、我々人間の理性や知識は不完全であるから、時にはたいして欲しくもないのに買ってしまったり、買ったはいいが思っていたものと違い満足できなかったり、ということがある。
 そこで経済学は、「消費」を起点とした「欲望-消費-満足」の繋がりに矛盾が生じぬよう、「合理的経済人」を理想的な人間像として想定する。ここでいう「合理的」とは、「無矛盾」の意味である。つまり、欲しくないものをうっかり消費してしまうような矛盾のある人間は決して望ましくなく、自らの欲するものを消費し、それによって満足を得る無矛盾な人間こそが望ましいという理念のもと、「合理的経済人」の理想的な消費行動が矛盾のない数式で記述されるのだ。ゆえに経済学は客観的かつ科学的な学問たることを標榜できる、と考えた訳である。
 先の私の消費行動——『の』を欲し、それを購入し、満足を得るという行動——は、実に「合理的経済人」として祝福されるべき振る舞いである。しかし無論、現実の我々は決して理想的な「合理的経済人」などではなく、常にそういう行動がとれるとは限らない。つまり、「欲望-消費-満足」がいつもきれいに一直線に繋がっているとは限らない。「欲望」と「消費」の間、あるいは「消費」と「満足」の間には、往々にして様々な種類の「ねじれ」が存在している。
 そして、古今の絵本を紐解けば、実に巧みにその「ねじれ」が描かれていることを発見する。しかもそこで描かれるのは、たいして欲しくもないのに買ってしまったとか、買ったものが思っていたものと違って満足できなかったなどという、まあ無視しても構わないかと思えるような類の「ねじれ」ではない。それは、我々が安易に無視してはならなかったはずの「ねじれ」であり、経済学の根幹を揺るがすような「ねじれ」——すなわち、理想とは言え「合理的経済人」を想定し、安易に消費行動を記述してしまってよいものかという問いに直面させられる「ねじれ」——なのである。

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