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絵本から経済を考える 第5回 「ガレージの効用」 谷 美里

 多くの人は小学生の頃に、家出をするかもしくは実行しないまでも企てたことが、一度や二度はあるだろう。あるいは少なくとも、少年少女が家出をする類の冒険小説や映画を観て、一緒に家出をした気分になり、わくわくしたことがあるだろう。
 大人になると、小学生ほどお気楽な身分の者もいないと思うかもしれないが、小学生にしてみれば、小学生ほど自由を搾取された身分の者もいないと思うことが、いつもではないにしても時々はあるのだ。
 学校も塾も習い事も自由に休むことはできず、勝手に休もうものならすぐさま親に連絡が行き、友達と遊ぶときの行き先もごく狭い範囲に限られ、行き先を告げずに勝手に遠出することなど許されず、家に帰ればやれ勉強だやれ手伝いだと好き放題はできず、夜更かしの楽しみもなく、自分には何ひとつ自由など与えられていないのだと厭世的な気分に落ち込んで、そんな最中に親に叱られようものなら、とりわけ生意気な口ごたえをして「何もかも親に面倒をみてもらっているくせに偉そうな口をきくな」などと正論が返って来た日には、いよいよ我慢がならなくなって、ぷいと家を飛び出してしまいたくなるものだ。
 では大人になればこの不自由な感覚がなくなるかといえば、そんなことはないというのは、誰しも日々痛感していることだろうから、改めて書くまでもないが、仕事に家事に育児にやるべきことは膨大で、何ひとつ放棄することは許されず、子どものとき以上に不自由であることは間違いない。
 だから大人は時々旅に出る。出たくなる。日常から離れ、仕事からも家事からも解放された時間と空間を、しばしの間手に入れる。
 子どもにしても大人にしても、日常生活というのは不自由なもので、そこから時々抜け出したくなって、家出をしたり旅をしたりするのだ。あるいはそういう小説を読んだり映画を観たりする。

 そうやって人々は、日常と非日常とを行ったり来たりしながら、ある意味健全なサイクルを保って生きてきたはずなのだが、コロナ禍により、この健全なサイクルは断ち切られてしまった。海外へはもちろんのこと、県をまたぐことすら許されぬ状況下で、旅行には当分行けそうにない。旅行のみならず、コンサートや観劇などのイベントに行くことすら叶わない。
 さらに、日常生活そのものもまた切り崩されている。これまでは旅行やイベントのような非日常の空間にアクセスすることが難しい場合でも、生きるうえでの健全なサイクルを保つことは可能だった。なぜなら、日常の場というのは、誰にとっても複数あるものだったからだ。子どもであれば、家、学校、塾、習い事、公園など。大人であれば、家、職場、行きつけの喫茶店や飲み屋などなど。しかしそれがいまでは、多くの人にとって日常の場が「家」というたったひとつの空間に限定されてしまっている。子どもたちがさすがにそろそろ学校に行きたいと言い、大人たちがリモートワークにはもううんざりだと言うのも当然である。3密状態の自宅にしか居場所がないなど、窮屈なこと極まりない。
 そんな状態であるから、いつも以上に日常の場から離れたいと思うのが当然の心理なのだが、それは叶わない。旅どころか、ちょっとしたお出かけすらままならない。非日常空間への移動が全面的に禁止され、日常空間も制限された状態で、人々の精神的疲労は極限状態に達しつつある。
 いくら日常生活が不自由と言っても、かつての日常には複数の居場所があり、いざとなればそこからも逃れてどこか遠くへ行くことができた。そう、私たちはいま、かつてのような逃げ場のある生活を切に望んでいる。

 さて、そのような状況下で、私は「ガレージの効用」というものを考えてみた。

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