【特別掲載】 せめて、よい夢を。――代々木会館から考える『天気の子』論―― (2) 高橋秀明
2、地理論から作品論へ 母・他者・享楽とその場所
(1)母の不在
映画評論家の渡邉大輔は『文學界』の中で『天気の子』での父の不在を主題にしている。簡単に要約すると、『天気の子』及び新海作品では父の不在が顕著である。それが父という「大文字の社会領域=象徴秩序の欠如」という「セカイ系」の特徴を踏まえており、主人公のナルシスティックな言動に繋がっているのだという批判に対して、渡邉はそうではなく、ドゥルーズのキャロル解釈における「ポストヒューマン」的な「享楽」に目を向けるべきだと結論付ける。
渡邉がこの傍証とするのが、穂高が陽菜に向けて叫んだセリフ、「自分のために願って」である。渡邉はそこに、象徴的な父がいようがいまいが関係ない、「俺はただもう一度あの人に会いたいんだ!」という「狂った」身振りの肯定に加えて、自己のために何事かをなすことへと駆り立てられている現代社会の反映(徴候)をみる。
しかし、ここで結論部の彼らの「言葉」に重きを置き、一気にポストヒューマンの問題へと移行してしまうことは、少年と少女が日常的な糊口をしのぎ、まさにそのことによって少女を追い詰めていった葛藤のことを無化してしまう。途中、穂高は「これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください」と素朴に神に祈りを捧げていたのであり、陽菜もまた、穂高のためにその身を捧げていたはずである。自己の享楽の徴候を見るには、あまりにも彼らは素朴であり、それであるがゆえに疑似家族的なものたちとの親密な交流が生まれていた。
それゆえに、渡邉の指摘する「父の不在」はもちろんのこと、ここではやはり「母の不在」、のことを考えねばならない。これは、既存の新海作品にも通じよう。『君の名は。』では、三葉の父親は健在で、瀧の父親も登場する。だが、母親に関しては、三葉の母親は(画面に一瞬登場するが)亡くなっているし、瀧の母親に至っては登場すらしない。『天気の子』に関しても同様である。陽菜の母親は冒頭で(フレーム内に移りこむことなく)死んでしまうし、穂高については警察が持ち歩いている入学写真には父親の姿は写っているが、母親は写っておらず、生きているのか、死んでいるのかすら明かされることはないない。
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