小さな黒い箱

小さな黒い箱  2019年7月12日

 ジョージ・ハヤシは新宿の高層ビルの9階で開かれているカルチャーセンターの一教室にいた。小説を書く講座は8種類で、ジョージ・ハヤシが参加しているのは改造・修復・添削のクラスだ。痛んだ古い美術品を修復するように、小説にも修復というものがあるのだ。近年これがブームになっていて、とくに劣悪な修復が流行している。
「さてジョージ・ハヤシが今回選んだ作品はなんだ。」講師のレオパレス謙三が聞いた。
「フィリップ.K.ディックの短編である”小さな黒い箱”です。ディックが短編を書いていたなんて知りませんでした。一時間もしないうちに読めてしまう作品ですが、これを修復しようと思いました。」
「添削したい一番の目玉はなんだね。せめて70年代の西海岸の風は残しておいてくれよ。」
「タイトルにもあるような小さな黒い箱、共感ボックスというもので、ウィルバー・マーサーが広めた宗教の信者の間で教祖と通信するためのものです。でも、ちゃんと修正できるかわかりません。もしかしたら勝手に暴走して、似ても似つかない話になってしまうかもしれないんですけど。」
「困ったねー。それだとカラオケボックスでの歌唱能力の採点が低くなるような感じで、いい点はあげられないよ。質はいくら落としてもいいが、形は別物にしないほうがいいと何度も言ってるよね。あくまで修復科だよ。」
「はあ、毎度のことですみません。ダメなら、またここに通います。もう毎週水曜日の夕方になると、体が勝手にここに来るようになってしまいました。駅でタピオカミルクティーを買う。ここに歩いてくるまでの地下道で、それを三分の一飲む。誰も見ていない時に、こっそりと路上に器を放置する。そしてこのビルのエレベーターに。これがほとんど眠っていてもできるようになってしまいました。」
「君が知らないうちに、その器をホームレスが拾っているだろうね。」
「はい、わかっています。だから汚くないように、新しい太ストローを刺しています。それにわたしの口の中の雑菌が移らないように、自分が飲む時は逆流防止ストローで飲んでいるんですよ。この逆流防止ストローは、特注で一本8000円もしました。所沢の会社で、精度は最高です。それに器にはメモを貼り付けています。今日書いたのは、今月のあなたのラッキーカラーは黄色、というものでした。」
「その黄色という決め手はなんだ。」
「電車に乗ろうとした時、ホームのガードが黄色に輝いたんです。その中にスカラベがいました。よしっ、これだと思いました。」
 教師のレオパレス謙三は急にこのやりとりに関心を失った。「それでは、気分一新、書き始めてください。」レオパレス謙三は別の生徒と話はじめた。

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