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徒然なるままに:霜を履みて堅氷至る

霜を履みて堅氷至る/易経一日一言1123
霜を履みて堅氷至る。
霜を履みて堅氷とは、陰の始めて凝るなり。その道を馴致すれば、堅氷に至るなり。(坤為地)

晩秋の早朝、庭先に出ると薄っすらと霜が降りている。
今は微かな霜がこれから数か月経つと厚い氷になり、気づいた時には身動きがとれなくなっている。
これが「霜を履みて堅氷至る」ということ。
悪習に親しむことの怖さを教えている。

企業の不祥事や犯罪は、たいてい「霜を履む」ことから始まる。
最初はいけないことだなと気づいても、些細なことなので、「このくらいならいいだろう、大丈夫だろう。わからないだろう」と侮る。
しかし、悪習にだんだん馴れ親しんでいくと、やがて厚みが増大し、取り返しのつかない大きな禍に至るのである。
恐ろしいのは、最初はいけないことという認識があっても、馴れていくうちに意識に全くのぼらなくなって、悪いことも善だと強弁するほどになること。
それゆえ、最初の霜の段階で対策を練らなければならない。これは、企業倫理、教育など、すべてに通じる教訓である。
「易経に学ぶ」から引用

コロナ大茶番劇も、
ウクライナの戦争ごっこも、
まさにこの「霜を履みて堅氷至る」です。

神々との対話の中で近未来を見せていただくと、時折 2038年頃のアイスボールと化した地球が見えることがあります。

そう、堅氷至る の成れの果てのこの世の姿です。

霜を履めば、あぁ 冬がもうそこまで来ているな 

と気づけるかどうか? です。

ひとりひとりの人生の中にも

政治や経済、教育、医療福祉の中にも

この世や国、そして世界の中にも

数多の分岐点があります。

自分の今生をちょっと振り返ってみただけでも

日本の歴史書をパラパラとめくってみただけでも

ほら、大小様々な分岐点があったでしょう。

それが霜を履んだ時でした。

その時は一生懸命だったから、必死だったから、ノリノリだったから・・・
気づかなかったかもしれません。
流れに流されるままに猪突猛進したのかもしれません。

それはそれでよかったのです。
走り出したジェットコースターの途中で飛び降りることはできませんから。

でも1年経ち、3年経ち、5年経ち・・・10年経ちした頃、
まるでお寺の鐘がゴーンと鳴ったように、フッと人生行路のどこかで立ち止まる一時が訪れるものです。

それは病気かもしれません。
それは別離かもしれません。
それはどん底かもしれません。

その時、

あぁ もう霜が降りていたんだなぁ 
このままだと堅氷に閉じ込められてしまうぞ と気づけるかどうかの中に

今生 生まれてきた意味
今日まで生きることを得た理由
今日からの使命や天職  があるのです。

2038年のアイスボールは、数多の未来の中のたったひとつに過ぎません。

でも 霜を履んだ ことに気づけなければ、
それは唯一の未来になってしまいます。

霜を履んだ時、
迫りくる冬に立ち向かうのも一興
迫りくる冬から逃げようとジタバタするのも一興

でも霜を履んだ時、
私は、迫りくる冬を慈愛と慈悲と感謝の微笑みで包み込みながら迎えます。
立ち止まったまま、下手な歌でも詠むかな・・・

するとね
アイスボールの未来は虹に変容して消えてしまうことを知っているから。

「今ここ」に坐す とはそういうことですよね と仏陀さまに話しかけると

嗚呼 善き哉 善き哉 と微笑んで下さいました。

もしあなたも「今ここ」に坐してみたかったら、「お地蔵さまの会」へどうぞお越しください。


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