【映画感想】たとえ小さくても核心を持ち続ける大切さ
「あなたは考えすぎ」と言うようなことを何度も言われてきた私ですが、昨今の夜に目を向けると、そんな「考えすぎ」は自分の長所でさえあると感じています。
そんな私の考えを映画やドラマの感想を通して話してみると、いつだって「あんたは頭がいいからそこまで考えてるのよね」だとか「次元が違うから私にはわからない」だとか、何かと一線を引かれてしまうことが多い。
褒め言葉ではあり、とてもありがたいものだと思っていますが、それは同時に「思考停止でさえあるのではないか」と私は思っています。
ここ数年、密度を増すそんな違和感を、今回、人生初の試写会参加で見た映画「Missing(ミッシング)」は見事に描いてくれています。
本作は、主要キャストに石原さとみさん、中村倫也さん、青木崇高さんなどを迎え、監督脚本は「空白」等で知られる𠮷田恵輔さんが手がけています。
監督の作品は空白を見て以来で、2作目。
同じ監督であることはさることながら、石原さとみさん、中村倫也さんに惹かれる形で鑑賞を予定していましたが、予定外に、運良く試写会にご縁があり、参加したというのが経緯です。
とても重苦しい作品になるのだろうと覚悟はしていましたが、その重苦しさという側面において、私の想像していたものとは少し違っていました。
ある日突然行方不明となった娘を追う母親「沙織里」を石原さとみさんが、そんな沙織里を支える夫、豊を青木崇高さんが熱演し、
そんな夫婦の姿を取材し続ける記者の砂田裕樹を中村倫也さんが演じてくれているのですが、とにかくそのお芝居がとても繊細なうえ、主要人物たちの会話等の何気ないシーンの演出もとても事細かなので、登場人物たちから様々なものをキャッチすることができ、キャッチすることで、よりもどかしく感じたり、時に胸糞悪ささえ感じてしまいました。
被害当事者と、刻一刻と風化の道を進んでゆくネット(世間)の声や、それを取材する報道機関側と、被害当事者という大きな枠組みを皮切りに、
夫婦間という小さな枠組みでさえ、「美羽ちゃん」という被害者女児に対しての温度差を感じる時間がある構成、セリフを入れているのも、とても心を刺激される一端だったように思います。
本作においてはおそらく少数と思えるような価値観で奔走する砂田を見ていると、私自身が覚え続けている違和感がありありと見えてきました。
日本では「赤信号みんなで渡れば怖くない」なんて言葉があるくらい、時に多数派が正義とされてしまって、少数側はとても疎外感を覚えたりすることってあると思うんです。
劇中、様々な場面で砂田を取り巻く環境(世間とのギャップなど)が変わっていることが示唆されるのですが、
そのすべてが悪ではないし、砂田があがいて藻掻いて模索しているやり方というのは、
時に理想論の域を超えないのかもしれませんし、中村倫也さんのおっしゃるように、テレビであるからには、ある種のエンターテイメント性もきっと必要だと思う というのも、事実であると思っているのですが、なんだかもやもやする気持ち悪い感じ。これが、冒頭でお話した、気持ち悪さの一端であります。
失踪直後は当然ながら、情報提供を呼びかける報道が度々行われるわけですが、世の中は移ろうことが必至ですので、風化していくのは致し方なし。
風化に伴い、報道機関の求めるものは、所謂お涙頂戴的なエンターテイメントだったり、視聴率となってきて、それが需要と供給的部分でもありますが、逆に言えば、そんなものばかりを国民は求めてしまっているわけですし、報道において情報提供を呼びかけることの優先順位は、ずいずいと下がってしまう。
エンターテイメント性を強要する上司に対して、本来やりたいようなことをするにも、砂田のできることというものも限度があるわけでして、
どんどんと、砂田と世間とのギャップは浮き彫りになるわけです。
そういった焦り故に、砂田自身の言動が少し世間と同じようなものに染まったようなものに変わってしまうシーンなんかも描かれていて、
途端に、私の中で「正しい人」や、自分と同じ「倫理観」や「道徳心」を持ち合わせていると思っていたはずの砂田が、「世間と同じ」になってしまったんです。
けれどある意味、それでこそ人間であり、そこのストロークを演じる中村倫也さんがとてもすごかったです。
これは何も、記者と世間という括りだけではなく、被害者だったはずの沙織里が強い語気の強い言葉を、重要参考人的存在の弟に対して投げかけてしまい、ある意味で加害者側に回ってしまったりするなど、至るところで、いとも簡単に逆転性起きているんです。
そんなふうにコロコロと正しかったはずのものが反対になってしまう瞬間が度々やってくるからこそ、見ているこちらは、一体「正しさ」とは何なのかと考えざるを得なくなっていきます。
それ故に、他の試写会感想で「考えさせられた」といったものを見かけたのかもしれませんが、そこで止まらずに、
映画という、いろんな人物の立場に、客観的に立つことが比較的容易なコンテンツでこそ、
普段は掘り下げられない範囲にまで、深く深く、潜ってほしいなと私はすごく感じました。
人は生きている以上は変化するものです。
生きていくために必要な術というのもたくさんあります。需要と供給があるから世界は回ります。
けれど、このどれもが今の私にとっては時に気持ち悪く、生きにくい要因になっていて、そんな気持ち悪さが、この映画には詰まっていると同時に、希望ももたらしてくれました。
SNSで、人を簡単に攻撃できてしまったり、数多の情報に触れられる世の中で、真偽のわからない情報が蔓延り、それを見抜くリテラシーが求められる。
かと言って、今の報道機関は、時に不信感を覚えるものになっている。
もう何が正しいのかなんて、全くわからないわけです。そんな世の中に対して、どう歩み続ければいいのか。
私にも、その正解はわかりえませんし、死ぬまでかかってもわからないのではないかとすら思いますが、ミッシングを鑑賞した今の私のひとまずの答えは、
「自分はどう感じるのか」や「自分はどうしたいのか」「どんな未来に生きたいのか」
そういったことを、ひたすらに考え続けることでした。
こんな考え方を言うから、前述のとおり、いつだって「考えすぎ」と言われてしまうわけですが、それでいい、それが私なのだ、と思いました。
それが、私の核心であり、1つの光です。
それ故に、必死にもがく砂田にとても共感したし、他にも、砂田へ共感する方が続出していたそうなので、まだ世も捨てたものではないのかなとも思ったりしてます。
今の世の中は、物価高や各地での戦争とも取れる情勢はもちろん、政治に対する不信感と同時に問題視される、政治への無関心や少子高齢化問題等々、身近なところでさえも問題点は上げたらきりがないような事だらけですが、
身近か否か問わずしても、それらを、仕方がないと諦め甘んじるのか、はたまたほんの一分でも考えたり、一つでも答えを出すのかであれば、私は後者を選びたいのです。
生きていくには様々な余裕(経済的余裕や精神的余裕など)が必要で、今の世の中はそれができないように洗脳されてしまっているのだとさえ話している人がいたのを私は見ましたし、
ミッシング内でも、登場人物たちからどんどん余裕がなくなったからこその衝突が起きていたとも言えるのではないかと思っています。
その余裕のなさを生み出している要因は、必ずしも娘が見つからない焦りや思い通りに行かないもどかしさだけではなくて、
匿名でたった一部だけを見て判断した「ネットの声」でもある。
でもそういうときに乱暴な言葉をかけている人ほど「一部だけを見ている」ということには気が付かない。見えないからです。
「テレビで出ている情報」「噂」から判断して捌いていて、その奥でどんな人間がいるのか、どんな過去があったのかは見えないから、好き勝手言える。
好き勝手言うことで、自分の不満感なんかも解消しているのではないか、と私は思います。
こんなこと言ってる私も、作中「この人なんか嫌だ」と最初は思っていても、最後まで見ると印象が変わっていたりして「あぁ、一部しか見てなかったな」と戒めました。
(これは、ソースなんかは特にございませんが)世の中の人に余裕がないからこそ、沙織里への誹謗中傷だってたくさん起きていると言えるのではないかと私は感じていたので、
このままの世の中で人から余裕がなくなり続けてしまえば、どんどんと人への優しさも低減し、自分の周りさえ大切にできないようになって、
自分のことに必死で、世間にたいしてや、もっと広い範囲、政治や世界情勢に関心が持たれなくなったり、身近なところからいずれは世の中が大変なことになってしまうのではないか…___
そうして、よりいっそ世の中で不満が高まれば、
それこそ、ミッシングで起きたような事件を始めとした、大小にかかわらず悲しい事件や苦しい事件、出来事が実際に起き、
余裕のなさが連鎖したりと、まるで明日は我が身のような状況になりかねないのではないかと思います。
それでも、もちろん誰しもできる限り、良い未来に向かって進みたいじゃないですか。生きてるんだもの。
そんなことを言ったとて、世界や世間を相手に、一人で何かが変わるのかと言われれば、きっと答えはNO。YESというのであれば、それはおそらく理想論に限りなく近いとも思っていたりはします。
ならばなぜ、こんなことを執筆しているのかと言いますと、ミッシング公式に、これは壊れた世界の中で、光を見つける〈私たち〉の物語とあるように、
私一人では何も変わりはしませんが、そんな私にでも、言葉にしていれば、ほんの小さな手の届く範囲でだけでも何かを変えることができるのではないかと信じからです。少なくとも、何もしないのは怖いと思うからです。
つかの間の時間でしたので、言葉違い等にご了承いただきたいのですが、𠮷田監督も「優しい世界になることを願って」というような言葉を舞台挨拶中に紡いでいらっしゃいました。
だから、と言うのも変ですが、
「泣いた」「やばかった」「考えさせられた」等で感想を終えるのではなくて、
具体的に、どこのシーンでどんなふうに感じたのかや、それを受けて自分はどうしていきたいのか、ということまでしっかりと掘り下げてほしいと強く思うんです。
作中で出てくる誹謗中傷を「ひどい」と思う人の中には、自身も同じように「物事の一部だけ」をみて捌いている人がいるかもしれない。
自分はそうなっていないだろうか、誰かを無意識に攻撃していないだろうか、そんなことを少し考えるだけでも、「被害者」という画面の向こうの人が減ることになるんじゃないかと思います。
少し話は逸れますが、先程お話した現実軸での政治等で言うのなら、例えば、ある意味で無尽蔵に法改正等が行われようとしていたりする現在。
(パンデミック条約だとか、NTT法、憲法改正もしかり)そういったことにデモを起こしたとて、報道されていません。
なんで報道しないの?といつも思うし、今の日本にも砂田さんのように「諦めない人」がいてほしいと願うばかりなのですが、
報道しない、されないその裏には一体どんなものが潜んでいるのか、なぜそうなるのか。
一般人の私に知る由はないのかもしれないけれど、
国民の中で、今報道されていないようなジャンルにももっと関心が高まって考えたりしていくようになれば、もしかしたら(数字が取れるからと)報道が変わるかもしれない。
そうして報道が変われば、日々触れるものが変わり、少しでも生活にゆとりができれば、少しずつでも今より優しい世界になれるのではなんて思うわけです(語彙力)
(PS SNSで反対意見の上がってる法案であろうと国会などでは無視されているように見えてしまう今の世の中なんですけどね)
時間があるようでないようなこの忙しい世間。
生きていくだけで必死な人生の中、こういう事はなかなか難しいのもわかるけれど、
それでも考え、何かしら小さくとも動くことで、(ネットに書き込むでもいいと思う。もちろん言葉は選ぶべきで、攻撃はだめ)ほんの少しでもいい方向に未来へ舵を切れるかもしれない。
そうであってほしいと私は思います。
個人的に、暗いニュースばかりが目についてしまったり、趣味をしていることさえ時に憚られるような気さえしてしまう瞬間もある世の中ですが、
未熟な自分ではうまく言語化できないネットの世界や人間性を、ここまで鮮明に描き、訴えてくださるクリエイターさんがいるということも、
ミッシングを見ていてとても嬉しかったことです。
それらが私の光となっていて、
私の人生を、未来を照らしてくれているものでもあります。
この光が消える日はきっと、ある種私の人生の終わり。
いつ死ぬかなどわかりえませんが、どうせなら楽しく嬉しい人生にしたいに決まっているので、私はこうして考え続けます。それが私の核心でもありますから。
ミッシングを通し、そう確信しました。
否、自分にとっての正しいは何なのかと言うことも、時に簡単に悪になってしまうので、「これは絶対正しいのだ」と思い込んだりしないように自戒しつつ、いろんな意見や角度から物事を見れるようにしていきたいなと思います。(見ているときの私はそれができなかったのが怖い)
こういった気づきをくれたりするのも、私が映画が好きな要因だと改めて感じさせていただきました。
ミッシングがたくさんの方へ届きますように。
人生初の試写会で、存じ上げている監督の素敵な作品や、応援している俳優さんにお会い出来たこと、とても幸せでした。
こんな幸せや、光が続くことを願っています。
素敵な時間を提供してくださったすべての方へ感謝とリスペクトを。
ではまた、何か書きたくなった際に。
ご縁がありましたら暇つぶしにでもお読みください。
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