幻影との日常

高価なカウチに全体重を掛け、どっしりと寝転がる化粧の濃い女。首にファーを巻き、仕立ての良いシルクのワインレッドのドレスを着ている。ピカピカの硝子のローテーブルには由緒ある銘柄のワインと高級チーズ。その目の前には異様な魔方陣と瓶詰めの虫。カタカタと瓶が揺れたかと思うと黒い霧が魔方陣から吹き出し、間接照明だけで照らされた薄暗い部屋を闇に染める。女は異常な光景に怯える所か待ちかねていたかの様に手を叩く。霧が徐々に小さな人影に変わっていき、それは愛らしい声を発する。
「幻影の悪魔、契約により参上いたしました。」
黒いワンピースに身を包んだ茶髪のショートヘアーの青い瞳の少女が魔方陣の中央に立っており、裾を両手で摘まみ上げ、一礼する。
「待ちかねたわ。やっと会えた。」
女はケラケラと笑いながらワインに口をつける。
幻影の悪魔は裾から手を離し、ワンピースをフワリとさせると笑顔で問い掛ける。
「貴女はその美しい唇を対価に何を望まれますか?」
女は大袈裟に顎に手を当て暫し考える。そして、嘲り混じりの笑みでこう答える。
「幻影の悪魔。私に跪いて屈服して。それが私の願い。」
女の唇から潤いと艶がなくなり、皺だらけのガサガサとした唇に変貌する。
「了承しました。お安いご用ですよ。」
幻影は女の前に跪く。女はその頭にグラスのワインを掲げてかける。幻影の白い肌を赤い水がながれる。女は高笑いを上げ、乱暴に髪を掴んで唾がかかる距離まで顔を近付け罵詈雑言を浴びせる。満足するとありったけの力で放り投げる。
「上級悪魔が人間風情に跪くなんて滑稽よねぇ!契約がそんなに大事な訳!?理解出来ないわぁ!アハハッ!!どうしたのよ。何もしないの?出来ないわよねぇ!まだ私は貴女と契約中だから!契約違反なんてやらないわよねぇ!だって!幻影の悪魔は上級悪魔だから!悪魔の質を個の感情で貶めないわよねぇ!!アハハハハッ!!力ある者を跪かせるのが夢だったのよ!」
幻影は立ち上がり、埃を払って髪を整え、腕を後ろ手で組み、何も言わずに笑う。女はワイングラスを顔面に叩き付け鼻で笑う。幻影の顔面でグラスは砕け散るが顔を赤く染めているのはワインだけで血は一滴も流れない。
「へー、上級悪魔はそういう態度をとってくるのね。面白くないわ。でも、まだまだ人間の戯れに付き合って貰うから。」
指を鳴らすと、奥の扉からガタイの良い黒スーツの男が七人程出てくる。
「囲んでなぶって犯しなさい。惨たらしくね。安心なさい、今は小娘だから。何も恐れる必要は無いわ。」
男達は言われるがままに幻影を取り囲み、武骨な手で掴み掛かる。柔らかな茶髪、繊細な肩、白くて華奢な腕を人間であったら折れているであろう力で動きを封じ、服を引きちぎり丸裸にする。年相応の少女の様に泣き喚いたり恥ずかしがったりせずされるがままで笑みを崩す事はない。
―数時間後
身体中は痣まみれで、愛らしい顔は殴られて歪み、片目がない。不快な粘性と臭いを持った白濁液で穢されているが幻影は変わらずに笑う。苛立った女は中身の入ったワインボトルを投げ付ける。幻影の白い身体が再び、真っ赤な流れで染まっていく。
「何で…何で笑ってるのよ!何なのよぉ!!悪魔風情の癖に!」
その問いを待っていたとばかりに口端を上げ、目を細めて嬉しげに口を開く。
「私は上級悪魔ですからね。存在してきた時も違えば、経験してきた修羅場も違う。それだけですよ?ご主人様。」
丁寧だが皮肉たっぷりに答える幻影に更に苛立ちを募らせ、女は男達に暴力を振るわせる。三十分程暴力の限りをつくしなぶる。外見が醜くなり、ぐったりとしているが笑みはやはり変わらない。
「何で…何でっ!」
ヒステリックを起こした女はローテーブルを強く殴り付ける。拳を赤くし、息を荒くして怒り狂っていると背後から声が掛かる。
「こんばんは。幻影の悪魔の屈させ方をお教えしましょうか?」
女が驚いて、悲鳴を上げる。カウチから頭をひょっこりと出すのは茶髪のボサボサのショートヘアーで瞳のあるべき場所と両手に包帯を巻いた濃い紫のローブの少女。
「何処から入ってきたのよ!何なの!」
「驚かせてしまい非常に申し訳ありませんでした。でも、聞きたくないですか?幻影の悪魔の屈させ方。申し遅れました。私はログリッチ。幻影の悪魔に騙されてこんな姿にさせられて復讐を誓い、同じ目に合っている方を救済する為に日々努力している人でなしです。」
何処から入ってきたかの質問には扉を指差し答える。女は怪訝そうに顔を歪めているいたがふと、幻影に目をやる。自信満々の笑みがなくなり、残った青い目は不気味な姿のログリッチへ生気なく向けられている。
「貴女…本当にこいつの屈させ方を知っているのね…?」
「勿論。あの笑顔がなくなった事が証拠ですよ。」
女は必死な形相で胸ぐらを掴んでログリッチを揺さぶる。
「早く教えなさいよ!あの偉そうな悪魔を!私が!心から!屈服させるの!」
ログリッチは揺さぶられながらも怯む事なく淡々と言葉を紡ぐ。
「簡単ですよ。『幻影はこれにてお仕舞い』と言うだけです。どうですか?」
「眉唾物だけど信じてあげるわ。」
女は魔方陣の外から言われた言葉を放つ。
「幻影はこれにてお仕舞い。」
すると、包帯が女の足首に巻き付き、転けさせる。包帯の先はログリッチの両手に繋がっていた。
「何するのよ!!まさか…!」
「騙しました。ですが、私は言いましたよ。人でなしであると。魔方陣の外から唱えるのは大正解ですが目前の偉大なる上級悪魔、幻影の悪魔様には無意味な行為でしたね。」
「信じないわよ!あいつは魔方陣からは出てこられない!消えろ!化け物!」
女は指を鳴らそうとするが指が黒い霧に包まれおかしな方向へ曲がっている。痛みに悶えながら男達を呼びつけようとするが瞬いた瞬間に事切れていた。口から吐き出される黒い霧。魔方陣から消えた幻影の悪魔。濃くなる部屋の霧。女の顔は段々と青ざめていく。
「ウフフフフフッ。良く出来ましたログリッチ。貴女は本当に可愛い子です。後でたっぷり可愛がってあげますね。」
天から聞こえるノイズだらけの性別不詳な声。凝縮された霧は部屋一杯の黒い塊になり、黄色の複眼が疎らな光を放つ。
「人間の前でこの姿になるのは久々ですね。ええ、貴女がお仕舞いにしたんですよ。幻影を。ウフフッ。悪魔の前での言葉は選びましょうね。直球で受け取るので。」
ログリッチが無言で包帯を戻し、一礼して扉から出ていく。女はすがる様に手を伸ばすが黒い霧が全身に纏わりつき、メキメキと身体を折り曲げて跪くポーズをとらせる。
「上流階級の人間が悪魔風情に跪くなんて実に滑稽だ。原本でない悪魔辞典で私を呼び出した時から貴様はこうなる運命だった。魔方陣には細工がしてあってな。容易に出られてな、いつでも干渉出来たが何故そうしなかったと思う?」
高圧的な口調に変貌した幻影に怯えきり完全に戦意喪失した女は泣きじゃくり首を激しく横に振るだけだ。
「自分で言ってだろう?『上級悪魔は個の感情で悪魔の質を落とさない』。そういう事だ。そして、『幻影はこれにてお仕舞い』とも言った。これは契約終了の文言だ。契約終了後には私と貴様には何の関係もない。つまり…。」
「個の感情で何しても良い訳だ。さて、どうしてやろうか。悪魔は対等の対価を求める。私はその傾向が特に強い。良かったな、思ったほど苦しまずに済むぞ。」
必死に謝罪しようと口を開けようとするが唇が乾燥し、唾液でくっついてしまっているせいで声を出せない。
「代価で苦しむ羽目になるとは愉快だな。まあ、謝罪で許す程、私は寛大じゃないが。」
黒い霧の塊が頭を掴む。脳内に映る膨大な量の幻影。汚ならしく吐き出される暴言。目の前で振るわれる拳。迫る足裏。欲望に歪む口。下半身を貫く女として感じる激痛。強烈なリアリティーの幻影に悲鳴の一つでも上げたいが声は出ない。脳が凄惨過ぎる光景の処理に間に合わなくなり鼻血と血の泡を吹いて数秒ピクピクと痙攣すると糸の切れたマリオネットの様に動かなくなる。
「脆弱な人間が。おっと。人間は脆くて可哀想な生き物ですね。お疲れ様でした。」
少女の姿に戻ると軽快に歩き、右の壁際に置かれたワインセラーから瓶を一本取り出す。自身がされた仕返しにと中身を全部かける。
「これで仕上げは済みました。思ったほど苦しまずに済みましたよね。あくまでも対等なので。ウフッ。」
瓶を屍の顔に放り投げて割る。額から血が流れ出す。
「満足しましたし、帰りましょうか。最後に上級悪魔としての痕跡を残しましょうね。」
魔方陣の中央でワンピースの裾をひらめかせながら回る。黒い霧を部屋に充満させる。視界が真っ暗になる程の濃度になると窓ガラスを圧迫し、突き破る。最終的に建物全体を霧が覆うと凄まじい轟音を立てて内側から崩落していく。瓦礫と化した建物の残骸で埃と舞っていた幻影はピタリと回るを止める。
「ログリッチ。貴女は鈍足…。おっと、貴女に足はなかったですね。それは置いておいて。瓦礫に埋もれていないで帰りますよ。」
「これでも逃げた方です。私は幻影様と違い、醜いので人に姿を見られると厄介なんですよね。」
埃だらけで瓦礫から這い出てくるログリッチ。幻影の言葉通り、瓦礫が太腿を貫通し、破れたローブから見える脚は膝から下がない。
「あらあら。そんなに酷くないですよ。可愛いのに。素敵なアンデッド。良い事を思い付きました。姉妹の被害者ぶって帰りましょうか。道中でたっぷり可愛がりますよ。」
ログリッチを抱き抱えると埃を払い、動物でも愛でる様に頬を擦り寄せる。

人間達が突然の災厄に群がる中を
可哀想な姉妹の振りをして幻影は歩き始める。
同情を嘲笑いながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?