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「妄想代理人」paranoia agent


 私は、めったにアニメを見ることはない。今まで適当に話を合わせてきたが、正直なところ私にはポケモンすらよくわからない。だから、印象に残っているアニメと言えばかなり限られてくる。

 しかし、アニメが嫌いなわけではない。今日は、私が見てきた数少ないアニメの中で、印象深いものを一つ紹介しよう。

「妄想代理人」(2004)マッドハウス製作, 原作:今敏

 原作者の名前を見て、勘づく方は恐らく夢の住人と見た。そう、「千年女優」や「パプリカ」などの名作で知られる、今敏の数少ないテレビアニメ作品の一つだ。

 主人公は、人気キャラクター「マロミ」のデザイナー、鷺月子(さぎ つきこ)。彼女は仕事の帰り道に通り魔に襲われる。月子の証言によれば、通り魔の正体は黄金のバットとローラースケートを履いた少年だという。月子の事件を皮切りに、この「少年バット」による通り魔事件の被害者が立て続けに出るが、犯人は一向に捕まらない。少年バットの正体はいかに。

 これだけを説明すれば内容はただのミステリー。否、ミステリーほど単純ではない。どうぞ頭を悩ませていただきたい。マロミという安心感の権化と、「少年バット」という狂気のコントラスト、展開のつなぎ目とスピード感。そしてストーリー全体を覆う平沢進ワールド。私たちに解釈の時間すら与えないまま、物語は進み、気が付けばみんな気が狂って、「少年バット」に襲われ、はい、お終い。

 OPも印象深い。ビルの屋上、雨降りの廃屋に立つ者。落下中の若手刑事。みんな笑っている。気味が悪いほどに。聞いてしまいたくなる。「なぜ、笑っていられるんだ?」

 EDでは、マロミを囲んで、そのまわりで登場人物たちが、眠っている。本編の内容と対照的な、牧歌的ともいえるテーマ曲。これもまた、物語の気味の悪さを際立たせる。

 個人的なおすすめは、第3話「ダブルリップ」と第10話「マロミまどろみ」。二重人格者と通り魔にあやかり人を殺めた無能人間の追い詰められる様は圧巻であった。一方は、踊るピエロか野を舞う蝶。はたまたもう一方は、愚鈍なサル。声優の演技も狂気を引き立てる。現実と幻想の境界を揺るがす今敏節は本作品でも炸裂している。全13話。一気見ができてしまうほどコンパクトな作品だが、見ごたえは保証する。

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共同幻想

 「妄想代理人」は根強いファンも多く、ネット上には考察サイトも多い。アニメにしろ映画や小説にしろ、作品に込められたメッセージを考察し読み取ろうとする試みは、確かに醍醐味である。

 この作品にまつわる考察を概観するなら、現実逃避や妄想、幻想にすがることへの警鐘、というところに収束できるだろう。現実を顧みず、いたずらに言い訳を重ね、「マロミ」や「少年バット」という共同幻想にすがる現代の私たちを描写している、と。ネット上の解釈は一理ある。しかし、本当に?

 私の解釈はむしろ逆だ。つまり、「人間は幻想にすがらなければ、生きていくことさえ難しい」ということ。人間が幻想にしがみつく手の力と、百獣の王が獲物の首に噛みつく時の顎の力を戦わせることができるなら、おそらく勝つのは、前者だ。

 財布から一枚の紙幣を取り出してみてほしい。所詮はただの紙だ。そのただの紙が、紙幣たる理由は何か。それは、私たちが「その紙は紙幣だ」と信じてやまないからだ。隣にいる恋人を眺めると良い。彼・彼女があなたの恋人たる理由は、ただあなたが「彼・彼女は私の恋人である」と信じるからにほかならない。

 人間は、多くの者と共有可能な共同幻想を生み出す中で生きてきた。神、天国と地獄、「純粋な日本人」、貨幣制度、「常識」・・・。百獣の王の方がまだ気楽だ。捕まえた獲物が屍になれば、一度それを離して、餌として貪るなり、食べ終わればゴミとして放棄することだってできる。彼らに幻想は必要ないのだ。

 人間の場合はそうじゃない。ある日突然、紙幣がただの紙に過ぎないことに気づいても、硬貨がただの金属片ということに気づいても、私たちは貨幣制度という幻想から抜け出すことは許されない。幻想を手放すことは、自分一人が貨幣の本質に気づいた所で不可能なのだ。神の不在を知ったところで、神を信じる人間がいなくなるわけではない。むしろ幻想から逸脱すれば、狂人とみなされる可能性だってある。

 私たちは、しっかりと幻想をその手に掴んでいる。計り知れないほどの力で、がっしりと。幻想を失った私たちは、「だって、マロミちゃんがいなくなっちゃったんだも~~~ん」と戯言をぬかして、かつてあった安寧を嘆くしかない。

 

「その居場所がないって現実こそが、俺の本当の居場所なんだ!!」

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 これは作中の猪狩係長の言葉である。妄想から脱し、現実に立ち向かう意志を象徴する言葉として、ファンの間では名言扱いをされているセリフである。私の解釈では、これは名言でも何でもない。彼には居場所があったからだ。家庭という。妻という。

 このセリフに感化された人間には申し訳ないが、私にはこの言葉は、「質の高い居場所を勝ち取った人間の戦勝報告」にしか見えない。己の傲慢さを自覚しない「勝者の理論」と同じようにしか見えない。その場限りの安らぎや幻想にすがるしかなくなった弱者の気持ちを、彼は理解できないだろう。

 彼だって、正気を保てたのは、安定した安らぎと幻想に支えられてきたからではないのか。それが、マロミに変わっただけじゃないか。「少年バット」とやらに変わっただけじゃないか。賞味期限が短くなっただけではないか。

 幻想に捕われることなく生きていける。その慢心こそまさに幻想ではないか。私は、「強者」が弱者に戦勝報告を振り回す世界に賛同するつもりはない。私は、「強者の理論」が世の中を席捲する世界を望むつもりはない。賞味期限の長い、質の高い幻想は、弱者の持ち物ではないのだから。


さんぴん倶楽部 古川 巡/Meguru Furukawa

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