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Aro/Aceを測る

 自己紹介がわりのnoteを書いた。

 上記の中で、Aro/Ace(アロマンティック/アセクシャル)を自認した時の話にも触れた。しかし一口にAro/Aceといっても、何がダメで何が大丈夫なのか、どのような時に苦痛や抵抗を感じるのか、人生に何を望むのか、その指向・感覚の度合いは人それぞれだ。今回は、私のAro/Aceの「度合い」や、自認した時に思い起こされた過去のエピソードについて書いていきたい。

Aro アロマンティック

 当事者の中には、フィクションの描写も含めそもそも「恋愛感情」を全く理解できない方もいるそうだ。私の場合、映画・ドラマ・漫画などに出てくる恋愛は理解・共感ができた。典型的なオタクくんだったので、これまで数多くの男女CP・男男CPにハマってきた。もう10年近く前だがコミケの胆石で二次創作BL小説を頒布したこともある。(おそらくはうっすら存在する性的指向に関係するのだが、女の子同士のCPにはあまり萌えたことがない。)
 しかしフィクションの関係性であっても、必ずしも恋愛でなくて良い、むしろ恋愛関係を通り越してそれ以上に尊い関係性の方が好きだ。上司と部下という主従関係であったり、性愛的なことがあろうがなかろうが魂の双子のように共鳴し合うふたりであったり、恋人がいるのにそれよりも優先してしまう幼馴染だったり…。

 フィクションの恋愛なら楽しめるし、他人の恋愛話もさして興味はないが耐え難いほどではない。世間話のついでに自分から聞くことだってある。私が無理だなと感じるのは、やはり恋愛に「当事者性」が加わったときだ。
 矛盾するようだが、過去片想いをしたり異性のリアクションに一喜一憂するようなこともあった。マッチングアプリで恋人を探したことだって何度かある。しかし、片想いに裂かれる精神的リソースの大きさに圧倒され「もういいや」と思ってしまったり、「次会ったら告白されるな」と予感した瞬間に全て嫌になってしまう。そんなことが何度かあった。また、今のパートナーと付き合い始めて2・3ヶ月した時、自分の中に全く恋愛感情が湧いてこないことに気づいた。当時は、パートナーとの相性が悪いのかと思い悩み混乱した。

 恋人ができた途端、それよりもずっと前から付き合っていた友達よりも恋人を優先してしまう人がいる。私はそのような、友情が恋愛の下位互換になってしまう人間のことが嫌いだ。昔から友人はかなり選んできたので、今も仲良くしてくれる友達にこのような人はいない。生計を一にする関係(法律婚・事実婚・同性パートナーシップ問わず)であれば友人より優先して当たり前だと思うが、そうでないぽっと出の恋人を長年付き合いのある友人より優先する人の気持ちが分からない。このあたりはアロマンティックというより、「クワロマンティック」の方が近いのかもしれない。

 私が「恋愛的なことが無理」と感じるのは、それが性愛と切り離せないものだからだと思う。ひとたび他者と恋愛関係を結べば、手を繋いだりキスをしたり1つ1つステップアップしていくものだ。それを自然と想起させ、なんとなくそこに向かっていくような空気がある。個人差はあると思うが、片想いをしているときは性的なスキンシップまで思い浮かべない。せいぜい「告白」あたりをゴールとして思い描く程度だ。だから私も「片想い」までは平気でも、実際に付き合った後の方が苦しかった。「結婚」を見据えているのだから、付き合ってnヶ月経ったし手くらい繋ぐのが普通では。いずれセクシャルなスキンシップも取れるようにならなければ。そんなふうに思うと、ストレスで本当に体調が悪くなった。恋愛感情が薄く大きな価値を感じないという点でおそらくアロマンティックだが、私の場合は明らかにアセクシャルの方が強い。前述したように、アロマンティックというよりクワロマンティックの可能性もある。
 この先の人生、10年後・20年後にタイプど真ん中な男性と出会い、恋に落ちることが絶対にないかと問われれば自信はない。が、そもそも恋愛の優先順位が低いため、生計を一にする・協力して生活を営むのが恋愛できる相手である必要性を、ほとんど感じていないのだ。生理的に無理でなければ、きちんと話し合える相手か、私を大切にしてくれるかといったことの方がよっぽど重要である。

 アロマンティックの概念と矛盾するようだが、性的指向はうっすら男性に向いていると思う。男性のパートナーが欲しいと思ったし、好きになる芸能人・好きになるキャラクターも男性ばかりだった。異性愛規範の強い社会で生きてきたからそうなったのかと思ったが、他の当事者の方から「好きになるキャラは女性ばかりなので、性的指向はうっすら女性に向いてると思う」というお話を聞いて、なるほどと思った。恋愛感情がないのに性的指向がうっすらあるってどういうこと?という感じだが、人間は矛盾を抱えた生き物だから、そうやってゼロイチで割り切れないこともあるはずだ。

Ace アセクシャル

 アロマンティックの話と同じように、当事者の中には性的な話題・描写が一切無理な方もいる。実際に交流会で出会ったある当事者の方は、「そういったことは話だけでも気持ち悪くなる」とおっしゃっていた。
 私はというと、フィクションの性描写に関しては2次元・3次元ともに平気だ。推しC PのR-18作品を読むこともあるし、R指定の映画を観ることもある。
 やはりこちらも、性的触れ合いに当事者性が加わると無理だと感じる。そのように触れたいと思わないし、性的な期待をされたり、そのように見られたりするのが、パートナーであっても気持ち悪いと思ってしまう。「生理的に無理」と近い感覚がある。ただしポイントとしては、相手がセクシャルな接触を求めてこない限りは、その相手のことを生理的に無理とは感じない。
 具体的には、異性のパートナーと手を繋ぐのも無理だ。当然キスも、性行為も。何かの流れでハイタッチぐらいはギリギリOKかもしれない。
 ここまで読むと、潔癖症のように見えるかもしれない。ただ私は、女性の友人と手を繋いだり腕を組んだりするのはまったくもって平気なのだ。女子高育ちなのもあって、そういった同性間の友人としてのスキンシップは慣れっこだった。今はコロナの心配などもあってやらないが、当時はペットボトルの回し飲みすら平気だった。

 "結婚したら性愛関係も結ぶものだ"という一般的な規範が、とても恐ろしく感じられた。結婚を望んでいる限り、私もいずれ性行為をしなくてはいけないということが憂鬱で、世間の女性はどうやって折り合いをつけているのだろうと思った。ネット上で"結婚したならそういう相手もしてあげないと可哀想だ"的な言説を見るたびに、私がおかしいのかなと思っていた。
 だから自分がアセクシャルだと気づいた時に、ある種安堵したのを覚えている。

 私にとって、「結婚」の定義に性愛関係は含まれていない。結婚とは、生計を一にし助け合って生活していくことであり、緊急連絡先としてお互いを指定することであり、意識がなくなったら手術の同意書にサインするものである。
 自分たちの血を引いた子供が欲しかったり、互いの積極的な合意がある時は、そこにオプションで性愛関係を結べば良い。「結婚」の概念がそのように変化したら、アセクシャルの自分は生きやすいのになと思う。(生きているうちは絶対無理だと諦めている。来世に期待。)

言葉があってよかった

 セクシャリティを表すラベルには賛否両論ある。名前をつけて定義することで、微妙に当てはまらない人が除け者にされてしまう。本当はそもそも一人ひとり違っているのに、仲間の見つからない自分はなんなんだろうと戸惑う。そのような副作用もあることは承知だが、私は個人的に、アロマンティックやアセクシャルという言葉があって良かったと思っている。言葉がなかったら、自分がおかしい、あるいはパートナー選びが間違っていると勘違いして迷走していた。
 一方で、何度か当事者の集まりに参加した結果、同じセクシャリティの人と集まることにはこだわる必要がないとも感じた。一言でアロマンティックやアセクシャルと言っても、人によって許容レベルは様々だ。私はフィクションの恋愛や性愛が理解できるため(本当に理解できているかは別として)、「フィクションの恋愛描写も全部地雷です」という方とお話すると、私とは違うな・話が合わないなと感じてしまう。セクシャリティがどうかよりも、相手を一人の人間として尊重するつもりがあるかどうかの方が重要だと考えるようになった。
 私自身、アロマンティック・アセクシャルの言葉の意味ではなく、当事者の方のリアルなエピソードを知ってようやく自認したため、この投稿がいつか誰かの役に立てば嬉しい。


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