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令和五年 葉月 やくめ

マガジン「侏儒の自省録」について
わたしの思想を伝えるものではない。わたしの思想の変化を時々うかがわせるのに過ぎない。宇宙全体からすれば人生は一瞬であり、死後の名声もすぐに忘却され、全ての物事はやがて消え去る。快楽や苦痛を統御し、揺るぎなき自己を全うするために、未熟な自分が未熟であることを、起業家としての生活と、日常生活を重ね合わせて、かえりみる。

家族の役目と、企業の構成員としての役目

お盆は、墓参り。

お盆で墓参りにきている。私の家族は律儀に墓参りに行く家である。京都の東山区にあるとあるお寺に、春彼岸、お盆、秋彼岸、その他京都に訪れた時は必ず墓参りに行く。このしきたりを破っては家族の一員であることが認められないような暗黙的なルールが存在している。
小さい頃は、ただついて行くだけだったが、思春期に入るにつれてめんどくさがるようになり、京都の大学生だった頃はむしろ行く回数が減っていた。「行きたくない」と言った時の祖母の悲しそうな目に耐えかねて、なんとか、墓参りにいかない年はないようにしていた。
それが社会人になってしばらく経つと、行かないと気持ちが悪い。むしろ積極的に行きたいと思うようになってきた。おそらく私に孫が産まれて「墓参りに行きたくない」と言われた日には、祖母と同じような悲しい目をしてしまうのであろう。

CEO5年生に、なりました。

さて、スタートアップのCEOとしては、6月から5期目に入り、8月に決算がでた。CEOとしての役目を十分に果たせているのだろうかと省みるよい時期である。私個人だけでなく、もちろん事業として振り返りを行っており、新しい組織づくりに大きく舵を切っている。いわゆるスタートアップは自身の業務責任範囲も、誰かの業務責任範囲も数ヶ月単位の短い期間で大きく変わっていく。自分も含め従業員全員が、この目まぐるしい変化に心も能力もついていくのに必死である。振り返ると4期目の最も大きな業務責任範囲の変化はCTOの離任であった。(退職はせずCTOの役目を二代目に引き継ぐというもの。)

というわけで今回は、
・会社の責任範囲の変化などの短期的な役目
・誰から与えられたかわからないまま、まだ見ぬ誰かに託そうとしている家族の構成員としての長期的な役目
という時間軸の違う役目を並べならも、そもそも”役目”とはなんなのか、どうあるべきなのか、どう抗えないのかを思考してみたい。

役目ってなに

役目ってなんだか重い

役目という言葉の後につく動詞はなんだか重い。
例えば、役目を退く、役目を果たす、役目を全うする、役目に徹する、役目を仰せつかる、などだ。
役目だけでも重いのだから、重い動詞が後ろにつかないように、いっそ動作性名詞だったらいいのに思う。(動作性名詞とは「する」をつけて動詞にできるもの)
たとえば、人生の大きなイベントである名詞で動作性名詞をあげてみると、入社する、結婚する、離別する、などがある。これを、結婚を果たす、結婚生活に徹する、などと役目の後に続くような動詞をつけると、過剰に言葉がずっしり重くなる。けれど役目は常にずっしり重い動詞とセットでしか使われない。

役目はどう全うするのか。責任感or使命感?

役目をどう全うするのか考えるため、”全うする”がどのように使われるのかを、CEOという立場で役目を十分全うできているかを考えたり、人に役目を課したりすることが多い自身だからこそ注意深く観察したい。例えば、”天寿を全うする”と”職務を全うする”という言葉において、全うするの意味合いはどう変わるのか。この違いは、全うする対象の発生の起点が、他者から与えられたものを責任感として全うするのか、自ら全うする対象を使命感から生み出すのかの違いだろう。また、全うする対象が発生後、それをどの程度全うするのかについて自らの意志で変更できる余地の大きさに違いがある。後者の使命感の場合、全うする対象を生み出す過程の中で、それは運命論的に決まっており、それに従うことにコミットしているわけなので、自身でそれを疑ったり、そのコミットを解除することは難しい。責任感はその逆である。
そう思うと、仕事において使命感を持つとはかなり稀有な状態であるように思う。誰からも与えられていない問題の解決を仕事だと思い、一度自己決定した後は、自ら生み出しておきながら、その使命を遂げるまでは自ら全うしたと思えないのだから(=それをやり遂げるべきだという考えを自分で変えれないのだから)。

役目の輪郭がみえてきた。では、責任感で全うする役目と、使命感で全うする役目それぞれどのような期待のかけ方をするのが適切なのだろうか。

”責任感で全うする役目”だった場合の期待のかけ方

期待の掛け方の類型

責任感を全うする際の役目のかけ方は以下に分類される(と私は思う。)

  1. 積極的に期待する(例:ストレッチがかかるが強い意志でGapを埋める)

  2. 消極的な期待する(例:ストレッチの少ない期待)

  3. 消極的に期待しない(例:事業成果はあがらないが放置)

  4. 積極的に期待しない(例:業務変更や配置変え)

2と3は大企業でメジャーな期待のかけ方だと感じる。2のように、ちゃんと成果が安定して出せる業務。3のように、従業員のエンゲージメントを考えて事業に貢献する可能性が低いが個人の裁量を発揮してもらうタスクとして持たせる業務がそれにあたる。
1と4はスタートアップでメジャーな期待のかけ方に感じる。1のように、その人の短期間での圧倒的な成長込みで達成できるような業務。4のように、リソースが逼迫しており、1日も無駄にできない中で、組織として明確に担当業務を変えて、経営者としても本人への期待の架け替えが必要であると伝えることがそれにあたる。
大変なのは、1と4が短い期間で行き来することだ。期待する側も、期待される側もそれには相当な精神的負荷がかかる。だからこそ、このような精神的な負荷に対して、業務スタンスを変えずに働くことができるレジリエンスさが経営者としても、社員としても、スタートアップで働く上では求められる。
特に意識したいのは、期待をかける側が、自身の優しさに負けて心を鬼にできず、4の振る舞いをすべきなのに3の振る舞いを続けてしまうことだ。もしそれをした場合には、期待された側は当人が気づくまで、事業に貢献しようという前向きな思いで、無駄な業務を実施してしまうし、評価されない。
積極的に期待することと、積極的に期待しないこと”しか”してはいけないという状況は、言うは易し行うは難しである。

スタートアップだからという特殊性で理解を終わらせてはいけない

 あえて理解しやすいために、大企業と、スタートアップの対比として期待値のかけ方の違いを示した上で、スタートアップの特殊性を記載した。しかし、スタートアップの特殊性として着地させてしまっては、この「言うは易し行うは難し」と表現したことを実行できなかった際の言い訳を残してしまう。ならば、これはスタートアップの特殊性ではなく一般的なビジネスパーソンの振る舞いとしてそうあるべきだという捉え直しをしたい。そこでヒントにしたいのが、ジェニー オデル著の「何もしない」である。この本は、生産性という言葉が個人を追い込み、テック企業はわずかな余暇の時間すら勝手に取引するような経済合理性の中で、「何もしない」ことが如何に難しいことであるかという問題提起とそれへの処し方をまとめた本である。

まずは、「何もしない」ことが如何に難しいことであるかについて、まとまった箇所を印象したい。

2006年に出版れた「リスク大変動ー新たな経済不安とアメリカン・ドリームの凋落」(The Great Risk Shift: The New Economic Insecurity and the Decline of the American Dream, Second Edition)で、著者のジェイコブ・S・ハッカーは、70年代から80年代にかけて企業と従業員との間に政府の規制が介入しない「新たな契約」が結ばれたと指摘する。
「新たな契約」の中心となる考え方は、経済学者が労働力の「スポット市場」と呼ぶものに労働者はつねに対峙しなければならないというものだーそれは、特定の技能とそのときどきの経済状況を鑑みて労働者が値するその自連での金額が提示されるシステムだ。
その新たな契約は、企業と従業員が夫婦のごとく運命の沈没をともにした旧来(つまり70年代以前)の関係とはまったく異なるものだ。
その新たな契約は、企業と従業員が夫婦のごとく運命の浮沈をともにした旧来の関係とはまったく異なるものだ。ハッカーは、八十年代のゼネラル・エレクトリック社の最高経営責任者が従業員から渡されたメモを引用している。「会社が業績不振に目をつぶるのが誠実な態度だと言うのであれば、そんな誠実さなど必要ありません」世界規模の「スポット市場」では競争力保持の必要性だけが企業の唯一の原動力であり、企業は生産集団としての競争力を維持するために個人に仕事を采配する。
この「新たな契約」が、その他の政府の保護がなくなったことと相まって、拒絶を行うための余白の空間を閉じつつある。

ジェニー オデル. 何もしない (Japanese Edition) (Kindle Locations 2179-2192)

このように、期待の短期的な掛け替えは、スタートアップの特殊性によって発生しているのではなく、スポット市場が拡大していく中で一つの現象として、積極的に期待することと、積極的に期待しないことが短期間かつ高頻度でスイッチする労働環境が生まれているのである。
ただし、これは会社の全事業の全責任を負うCEOとして全うすべき経済合理性に基づく振る舞いであり、この文脈では正しいと言えても、無感情に実施できるようになってはいけないと私は考える。それはつまり、経営者として社員を『スポット市場』の枠内でのみ”消費”している、という構図に他ならないからである。

私にとって「何もしない」とは、ひとつのフレームワーク(注意経済)から離れることであり、それは考える時間を持つためだけでなく、別のフレームワークでほかの活動に従事するということなのだ。

ジェニー オデル. 何もしない (Japanese Edition)(Kindle Locations 4193-4195)

期待をかける側とかけられる側の関係性が「スポット市場」的に消費されつづけないためには、従業員との関係性において別のフレームワークを適応できることが必要だ。つまり、期待をかける権限を持つ人として、CEOの役割と切り離した個人がちゃんとその際に喜んだり、傷つくことが別のフレームワークで考える時間を生み出し、経済合理性から適度に距離を置く方法であると考える。

”使命感で全うする役目”だった場合の、状態維持

2つの大事な要素

  1. メンタルとフィジカルの健康状態を保つこと

  2. 使命感の強度を絶えず強くすること

1は言わずもがな、自身が、他者や社会に対してどのように貢献できるのか十分に想いを馳せることができる余裕が生まれている状態を維持するために必要である。私が起業した際の想いを常に振り返り、立ち返ることとも言える。
2については、使命感をもって行動した実績と、それを振り返り言語化を繰り返した単純な回数の多さによって、使命感に対する自己認識の強度を高めることができる。私の場合は、廃棄物業界をより持続可能な形にして人々が安心して明日を生きていける世の中に貢献することが生まれながらに決まっていたかのような錯覚を起こせるほどに、自己認識の強度を高めることがそれにあたる。行動した実績は日々の業務を行う中で自然と蓄積されるが、言語化は意図的に時間を作る必要があるため以下のような形で、使命感の言語化を定期的に実施している。

2について例を挙げると、ハリーポッターが三話目からハリーが別人になっていたら熱烈なファンは怒るだろう。ファンは擦り切れるほどに過去作をみて、あのハリーの顔、声のままに回想したり、ファン同士でハリーについて話した時間そのものが、ハリーとはこうあるべきという実績になり、それを繰り返した単純な回数の多さによって、ハリーとはダニエル・ラドクリフが演じるべきだと思うのであり、彼が数多の候補者中から選ばれたことは運命の導きとすら思えるのである。

しかし、ダニエル・ラドクリフと私の違いは彼は役者であり、彼の勝ち得たユニークネスは誇るべきものであるのに対して、私の場合は真逆の忌むべきものである。
なぜなら、使命感によって達成された成果のフィードバックとして、自分だからこそできた!という入れ替え可能性の低さ(ユーニクネスさ)が脳への報酬となってしまうことがあるからだ。成果として会社が得られた利益は客観的な評価が可能であるが、その際に放出される脳へのアドレナリンは、会社に利益を生み出さない。自身の入れ替え可能性をあげて、仕組みとして事業活動が回ることこそ、我が使命だと捉え直す必要がある。

使命感を持ち続けつつも、入れ替え可能性の高い自分を本心で目指すための心構え

では、一見、矛盾するような「使命感を持ち続けつつも、入れ替え可能性の高い自分を本心で目指す」という状態を自然に維持するにはどうすればよいのか。
その答えを探る上で、白人がなぜレイシズムに向き合えないかを白人視点で捉えた、ロビン・ディアンジェロ著のホワイト・フラジリティをヒントにしたい。この本は、白人は自分を人種として見なさないという小見出しから始まる。人種問題を考えるとき黒人は一般化しても白人自身は一般化しないままに考えるというのである。自身が既に経験している、与えられたものはユニークなものであるのに対して、それを入れ替え可能性の高い状態(一般化される)ことには絶えられないという状況が、この矛盾に似ている。そこから矛盾が起きている構造の理解と、そこからの脱出方法が探れるのではないかと考えたのである。

多くの白人は、この本のタイトル「私たち(白人)はなぜレイシズムに向き合えないのか?」にすら抵抗を感じるだろう。それは私が、個人主義という基本的なルールを破って、一般化しようとしているからだ。白人だというだけで、あなたのことがわかっている、というふうに話を進めているからだ。今あなたは、自分が他の白人と違う理由をあれこれ考えているかもしれない。あなたがどのようにしてこの国に来たのか、どんな人たちと仲がいいのか、どういう地域で育ったのか、どんな困難を味わい経験をしてきたのかといったことを私に伝えさえすれば、あなたが他者とは違うこと、あなたはレイシストなどではないことに私が気づくのではないかと思っているかもしれない。このような反射的な行動を、私は仕事の場で数えきれないほど見てきた。

ロビン・ディアンジェロ. ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? (Japanese Edition) (Kindle Locations 306-313)

米国の人種問題に実感が薄い日本人であっても、マジョリティー側(上記の白人にあたる立場)の方が、特定のタグで一般化される側(マイノリティー当事者)の立場になったときには、拒んでいた一般化されることをむしろ受け入れてしまう現象も本著ではわかりやすい例え話が出てくる。

こんなたとえで考えてみよう。あなたは医師に聴神経腫だと告げられた。医師が詳しい説明と治療の選択肢についてあなたに話そうとしていたそのとき、医師が緊急呼び出しを受けて診断が中断されてしまった。あなたはどうするだろうか?家に帰ってインターネットで、その病についてどんなことでも知ろうとするだろう。同じ病の人たちの自助グループに参加するかもしれない。たとえ医師が緊急呼び出しされなくて、病気について説明と助言をしてくれたとしても、それでもあなたは家でリサーチをするだろう。命にかかわるかもしれない一大事について、複数の意見を得ようとするだろう。要するに、情報を得たいと思うほどに心配だということだ。レイシズムも同様に生死を分かつ重要課題だ(実際に非白人にとってそうであるように)と考えて、情報集めをしよう。

ロビン・ディアンジェロ. ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? (Japanese Edition) (Kindle Locations 2951-2959)

自分の使命感からくるユニークネスを一般化される恐怖から解放するには、株式会社のCEOという役割としての自己を積極的に一般化(タグ化)し、あえてフレームを当ててみることが重要だと考える。そして、その役割としてのあるべき振る舞いに全うすることができるなら、それは誰でもできたことなのだと思い返すことができるのである。活動を継続するためのエネルギー源は使命感、行動は一般化この分け方がよいのだろう。「やろうと思う人、10000人。始める人、100人。続ける人、1人。」まさにこの考えである。

墓参りのようにCEO業務をしたい

ここまで”役目”について考えた上で、改めて墓参りをよくよく観察してみたい。一般化された習慣として、同じ場所に、同じ時期に来て、同じお作法を繰り返している。それと同時に、家族の構成員である私にしかできない使命感をもっている。
言い換えると、とても入れ替え可能性の高い行動を、入れ替え可能性が低い個人として行っている。それを30年以上かさねることで、両極端な価値観が同居していることこそが心地よいと思えるようになった。CEO業務も、それが当たり前、むしろ心地よいという状態に到達したいと感じた。それがCEOとして健全に使命感を全うしているということだから。


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