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名は呪いか、それとも希望か

とある撮影にいってきました。

撮影におけるポジション

カメラ慣れしたモデルさん(アナウンサーさん)と、何度もお仕事をモデルさんとしているカメラマンさんたち。私はその中にポイッと放り込まれたサーカスの猿。まな板の上の鯉。
今日はモデルさんを引き立てる!がんばろう。なるべく大人しくしておきます!そんな気持ちで撮影に望んだ。(いやいや2人ともメインだよと言ってくれたディレクターあざした)
実際、モデルさんのお着物はすーぐに決まったのに私は顔が主張が強すぎるのと腕が長すぎることで難航した。結果的に私に合わせてモデルさんのお着物を変更してしまった。

だれが引き立て役になるって言ったんだ?7行前の記憶はなんだ?

そんなこんなで圧倒的に恐縮しながら臨んだ撮影。カメラ慣れしたモデルさんの壮絶な(?)透明感の影となる決意を固めながらワンショット目に臨む猿兼鯉。

風向きが変わった


「ふだんニックネームとかあるの?」という一言に私がどれだけ感謝したか。
こんなしっかりと社会経験を積まれた方とご一緒させてもらう嬉しさと無名の私が肩を並べる恐ろしさでヒィンとなっていたときに私を受け入れようとしなければ出てこない声掛けをしてくれたのだ。
「しゅうちゃんってみんな呼んでくれます」ふだん拡声器いらずのデカボイスの私が蚊の鳴くような声で、でも速攻で答えた。
めちゃくちゃ嬉しかった。ありがちょ、モデルさん
そこからわたしは「しゅうちゃん」になった。みんながそう呼んでくれて、あーなんかビクビクしてるほうが悪いよねって思わせてくれた。

名は呪いか、それとも希望か

私は私の名前が結構好きだ。母がつけてくれた、漢字を知らないと読めない聞き取りにくいこの名前。ちょっとひんやりとした空気のなかに芯をもたせてくれた、温かい名前だ。
だけど、ちょっと嫌だったこともある。呼び捨てにされないから。呼びやすいからだろうけど、大体ちゃん付けしてくれる。高校生くらいのときは、フラットに呼び捨てにされる人を見てちょっと羨ましかったこともある。
私は「しゅうちゃん」として相手の求めている距離感を探そうとした。名は、呪いであった。

正直考えすぎなのだが、なんでも過ぎてしまうのでそんなふうに思ったこともあった。今思えばどう考えても考えすぎである。というのもすでに、まあ考えすぎである。



だけど少しずつ大人になって、今回のようなシチュエーションでお仕事させていただいたとき、相手方が歩み寄ってくれたら。珍しいこの名前、覚えてや、よろしくな。そんな軽やかな気持ちで呼んでもらえた。

疑り深さとか、斜に構えた姿勢とか全部とっぱらってくれたのは名前だった。名が、希望になった。


余談

キラキラネームやDQNネームと言われるお名前をお持ちの場合、困ることもあるだろうと思う。
名前はわかりやすいにこしたことはないけど、年代的には珍しい漢字を持つ私としては、そういったお名前も全否定はできない。
名前というのは、名付け親の願いや想いが込められていることが多い。その気持ちに嘘はないだろうし、それを否定するのは好きじゃない。

名に縛られていた私も、最近はきちんと曇りなく自分の名前を良いと言える。別に距離感が遠かったのは名前のせいではなくて私の人付き合いに問題があったからでした。(チクショー)
まあそんなこんなで私も大分大人になったなーとしみじみ。

みんなは自分の名前好き?由来とか知ってる?ぜひ尋ねてみて。そして自分のこと、もっと好きになってね。

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