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奇跡の出会い

猫と一緒にダイエットしてるんですけど、猫も私も停滞期です。
今日もさくっと世間話読んでってね。

人と人との出会いは奇跡?

そんな話はちょっと嫌い。奇跡とかない。人は出会うべくして、必要な時に、必要な人だけにとか、そういう話は聞いてない。じゃあいじめとか不仲とか起きないんじゃないのって思うから。
だけど奇跡みたいだなあと思う出会いはいっぱいある。ぜったいに私を裏切らない家族とか、今まで仲良くしてくれてる友達たちとか、辛い時隣で寄り添ってくれていた元彼とか。
じゃあそんな方々との出会いがなぜ奇跡のように感じられるのか。

結論、奇跡の出会いは無い。

RADWIMPSの『ふたりごと』に「君と僕が出会えたことを 人は奇跡と呼んでみたいだけ」というワンフレーズがあるんだけど、これが全てだ。言ったもん勝ちだ。はい終幕。

(結論出たからってまだページ閉じないでね)

いやいや、奇跡としか呼べない「瞬間」はあるよ。助手席で寝落ちした友達のアイシャドウが、信号で停車中ブレーキランプに照らされてきらきら光ってるときとか。人に興味が無いと散々言われる私でも、この子と出会えてよかったなと思った。確かに、あの美しさが奇跡じゃなかったらもうあとは何もかもどうでも良い。

ただ、そういった奇跡を描くにはそこに何らかの過程がないといけないはず。
つまり奇跡の出会いは直感的に感じるものではなくて、時が積み重なり後出しでそう思うから奇跡になるのではないかということだ。
出会った途端に奇跡を感じたことがある人には申し訳ないが、私はそんな経験をしたことが無いのでわからない。

奇跡は、軌跡によるものだ

現状、そう考えている。(やったー上手いこと言えた)
そしてその軌跡は自分の意志と意思で作り上げていくものである。
そんな軌跡を作りたいという思いを向けられる出会いのことをみんなは奇跡と呼ぶんだろうかとも思った。ただここまで来るともう私の頭では訳がわからないので思考をやめた。

劇的な奇跡の出会いはなくて相手と過ごした日々や瞬間、感情という軌跡を奇跡みたいと思った時に、やっと初めて出会いも奇跡となるんじゃないか。
数多の出会いのなかで、砂粒のような出会いが奇跡という砂金になるのはけっこう難しいことな気がする。だから、この人に出会えて良かったな奇跡みたいだなって思えた時には、出会いの時点よりもそう思えた時までにもらった相手の優しさとか葛藤とか、それによって得られた日々とか、そういうことに目を向けられるようにしたいなと思ってる。奇跡の数々は、偶然じゃないんだなって思ってる。

きっと明日も

ここまで読んでくれてありがとう。
今日私の住んでいる市では小学校の卒業式があったらしくて、街中でたくさん晴れ着の子どもたちを見かけました。どうか彼ら彼女らの明日から先が、たくさんの奇跡で溢れますように。私に関わってくれる、関わってくれた、全ての人にもそう願ってます。

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