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受験における外野の立ち位置を考える

こんばんは。今日もおつかれさまです。
多くの皆様が「華金」を迎え、明日明後日のお休みに向けてあれやこれやと思いを巡らせている頃だと思います。私は明日も仕事ですが、友達がくれたいちご大福がとても美味しかったし、猫を養うためには働くしかないので、文句はありません。

さて表題の話

世の中は試練に溢れている。そもそも産まれてくることが試練だし、産まれてから無事に天寿を全うして死ぬまでの試練の数は計り知れない。だけど今回は焦点を絞って、(嫌味を込めて言うけど)この時期の風物詩である受験に対して考えてみたい。

受験は、まあ結構な数の人が経験する。そしてなあなあに大学に通う人は多い。(私もそのひとりだ。)アングラな人でも大学は結構いいとこ出てたりして、「僕◯◯大学で△△学を専攻してたんだよ」なんて言われると、ほーんとなる。いや、単純な私はそうなるのだ。

みんなこの時期はノスタルジアに浸るのだ。「いや〜私もあの頃は大変だったよ」「俺なんか浪人しちゃってさ」なんて受験生不在の場で語り合うならいい。
ただ、父母とかではない外野が受験生に「頑張れよ!」「無理しないでね」なんて言い始めた暁にはもう悪趣味としか言えない。それはもう応援とかではなくて、ただの自己満足です。


その例をこの前見てしまった。某駅の改札をくぐった所に何枚かの模造紙が貼っており、付箋が沢山くっつけられていて、そのひとつひとつに応援メッセージがある。センター試験(今なんて言われてるのか忘れちゃった)の前日だったのだが、それを見た受験生の気持ちたるや、薄々感じているかもしれないけど私はそっとして置いてほしいタイプなので、胃もたれがした。いや、なんというか、嫌気が指したのだ。

どういうことか一言で表す語彙力は無いのだけど、「これべつに受験シーズンが終わった頃にお疲れ様とか頑張ったねとか言うわけじゃないのに」という違和感である。さっきも言ったけど自己満足でしかないじゃないか、と思ったのだ。まあ駅員と目が合ったのでメッセージは書いた。カロリーメイトをもらって、益々嫌になった。

もちろん駅員たちの善意や、付箋にメッセージを書き込んだ私以外の人たちの励起の気持ちまで否定するつもりはない。しかしそこには商業的意図が含まれているのかとか100%が応援なのかとかそういう疑念が私に渦巻いていて、あまり気持ちよくその場を受け入れられなかった。ごめん。だって、少なくとも1年間は支え続けてきた家族とかに比べたら果てしなく外野なんだよ私たちは。

どうせするなら、労いの企画もすればいいのにって思う。
付箋にメッセージ書いて、模造紙に貼って。落ちても受かってもそもそも受験できなかったとしてもお疲れ様なのは間違いないんだから。
なんかこう、外野が応援だけして毎年お祭り騒ぎなの止めてくんないかなあってひねくれ者だから思っちゃう。

ぼやいたはいいけど、何が言いたかったのかは微妙。
寝るねおやすみ

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