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嫌われたくないなんて言わないで。人生もゲームも楽しむものだから。孔子に習う人生とeスポーツ

孔子は言いました。

それを知っている人よりも学ぶ人の方が優れている、と。
しかし、それを学ぶ人よりもそれを楽しむ人の方がより優れている、と。

或いは、こんなことわざも

好きこそものの上手なれ、と。

よく耳にする言葉です。中学の国語で習った覚えがあります。
言葉の意味もなにも、そのまま。実際、生活していると、案外、実感する方も多いのではないでしょうか?僕は頻繁に痛感します。その度、己を情けなく感じるのです。
本当に、孔子は鋭い感性を持ち、それを表すのが上手い方だと思います。なんとなく感じること、漠然と考えること。それを言葉に起こすというのは非常に難しいことです。ものを書いていると感じます。それが出来た文章は良い文章であると言えますし、それを出来た文章というのが、共感出来る文章です。

感じること、考えること。僕も、そんな人の当然を言葉に表せたら、表そう、と意気込んで書いています。
しかし、上手くいかない。ものを書こうとするとどうしても躓く壁なのだと思います。その点で、孔子は本当に凄いです。まぁ、論語を書いたのは孔子ではないのですが…。表現できるのが凄い、という意味合いです。

今回は、つい先ほど感じた楽しむことの大切さについて書きます。短い人生の中で何度も感じてきたことですが、言葉に紡ぎだすのは初めてです。
よろしくお願いします。

初めての好評、芽生えた緊張

初めまして、Ryuhiです。僕の先日投稿した文章は想定外の好評をいただきました。中学の頃から文章をネットに投稿してきましたが、そのように評価をされたのは初めてです。自信など微塵もない駄文が、素晴らしいと言ってもらえたのです。
ずっと掛けられたかった一言を、一言以上の形で伝えて貰えました。今でも喜びに打ち震えます。

まぁ、ここまではここ最近ずっと書いている気がします。割愛。

しかし、それからというもの僕は今までとはまるで違った意味で、文章を書くのが怖くなってしまいました。

それは、承認欲求。それは、自己愛。

折角評価されたんだ、今だけは気にしてもらえるんだ。長い間拗らせてきた認められたいという願いが叶ってしまったことによって、それを変に尊大に受け取ってしまっていました。
なにも、大した事ではないという意味ではありません。本当にありがたくて喜ばしいことなのですが、弱い僕はそれを大いなる期待と捉えてしまったわけです。

嫌われたくない。失望されたくない。

初めて得た評価を手放したくない。そんなかっこ悪いわけで、僕は勝手に緊張しています。
案外そんなに期待されてないんだ、とも考えようとしました。しかし、そう考えると途端に自信が無くなってしまいます。期待されている。そう思うことで、承認欲求を満たしていました。

起こる弊害、過度な謙遜

そんな気持ちはすぐに表に現れます。もともと僕のツイッターアカウントはゲームのフレンド募集の為に、適当に作ったものでした。たまたまそのタイミングでnoteに文章を投稿していただけで、投稿以前はそれはそれはバカみたいなツイートをしていました。

しかし、僕の文章が評価されてフォロワーが増えると、途端にそんなことは言わなくなります。わかりやすい男です。
楽しくゲームをプレイしていたはずが、急にかしこまるのです。自分では緊張していて、せめてもの謙遜しようとしていたのですが。その実、調子に乗っていたわけです。

当然なのですが、そこに学ぼうとする意志は芽生えども楽しもうという気持ちは一切ありません。努力しなければ、という義務感に追われます。

謙遜と傲慢は紙一重。傲慢に生きたいわけでもありません。でも、そんな窮屈な生き方に耐えうるほど僕は強くはないのです。だから、せめてもの抵抗として、こう考えることにします。

この程度の評価で満足するな、まだまだ俺は上に行ける。

手にしたものばかりをみて足踏みするくらいなら、いっそ多少取りこぼしてでも前へ進みたい。そんな感じです。本当に、難しいことなのですが。
言うは易し行うは難し、です。
でも、考えるに餓鬼の取り柄なんてお調子者なことくらいです。なので、かしこまるよりルーズに頑張ります。

折角いい結果を出せたのにそれを楽しめなきゃ意味がないな。客観視して、ようやっと気づけたことです。気付かせてもらえただけ、大変ありがたいことです。

ゲームも楽しむもの

ここからは、漠然と、そんな考えの変遷とゲームに対する姿勢の変化が似ていたので思いついたものです。

eスポーツというものは近年目覚ましい発展を遂げています。なにか大ポカをやらかさない限り、徐々にその認知度、人気度は高まっていくでしょう。そのうち、僕なんて置いて行かれるような可能性をずっとそのうちに潜めています。それは偏に、eスポーツを盛り上げようとする人々の不断の努力によってです。

その一般化に伴い、プロゲーマーを目指す人々もまた、増え続けています。僕も同様に、です。しかし、どうもeスポーツという考えが普及してしまったこと、プロを目指す人が増えたことによってゲームとeスポーツが区分されてしまっていると思うのです。

もともとそのゲームを始めたのは、面白そうだったからな筈です。そのゲームが続いたのは、面白かったからな筈です。そのゲームを上手くなりたいと思ったのは、勝ちたいと思ったのは、そのゲームで勝つことが楽しかったからな筈です。

プロになろうとしてなにかのゲームを始める、というのもあり得ます。偶々見たプロのプレイに魅了された、熱気に感動した。とか。
でも、プロを目指そうと思って始めたゲームが楽しくなかったら。きっと、そんなゲーム続きません。

たかが娯楽。
今やその域を超えんとするeスポーツですが、やっぱりゲームの根源は娯楽なのです。そこは、eスポーツもスポーツも、違いなんてありません。競技性やらFree to winやらさんざ言われても、eスポーツ=ゲームで変わりありません。少なくとも僕は、そう考えています。

プロを目指すあまり、絶対的な勝ちに拘るあまり。楽しむ心が失われたら、どうにもなりません。
悔しさ、それを乗り越えた先のあの喜び。レート目標、達成目標を成し遂げた時のあの喜び。偶然のミラクルプレイの発生、反対に、それを決められた時のあの驚き。
その瞬間に弾ける感情は、それはもう何にも変えられない、まごうことなき楽しさです。

所詮はゲーム、されどeスポーツ。侮るなかれ。
初心忘るることなかれ、これを楽しむものはこれを好むものに如かず。

そんなことを思わされた今日この頃でした。結局楽しんだもの勝ちな理由は、それを最後まで楽しんだからです。僕も楽しみます。

以上、ありがとうございました。

僕の好きなことは、文章を書くことです。それを読んでもらうのが同じくらい好きです。そして反応としてスキとかフォローをしてもらうのは、もっと好きです。僕の文章を読んでくださって本当にありがとうございます。