読蜥蜴の毒読日記 24/3/22 ③

それは「原作」と呼ばれる #2

映画『アメリカン・フィクション』と
小説  “Erasure”  by Percival Everett について


"American Fiction” directed by Cord Jefferson  (2023)
“Erasure”  written by Percival Everett
Faber & Faber 2021 電書版

「フィクションにおいてフィクションを捏造するとは?」

 世の中にはちょっと聞いただけで「それは面白そう!」と感じるコンセプトを持っている映画や小説があるものです。
 例えば「インテリの黒人作家がステレオタイプの黒人観にうんざりして、チンピラの黒人を主人公にした小説をでっちあげると、その本が大評判になって大弱り」みたいな。
 こんなコンセプトの作品なら、小説も映画も面白いに決まっている、と私も思いました。
 そこで大いに期待値を上げて小説“Erasure”を読み、映画『アメリカン・フィクション』を観たわけです。
 ただ、小説も映画もコンセプトだけで出来ているわけではない。
 実際に小説と映画を鑑賞した私の感想は、これはちょっと期待したものと違うな、というものでした。
 ではその実態において、小説では何が書かれ、映画では何が撮られていたのか?

 そこでまず小説“Erasure”の紹介から。

 主人公は小説家のセロニアス・エリスン。綽名はモンク。
 この小説はモンクの一人称で進行します。
 父親も姉兄も医者であるという恵まれた環境に育った彼は、大学で講師をしながら純文学小説を執筆しており、業界では評価されていますが本の売れ行きはさっぱりです。新作の出版もどうやら難しそう。
 そんな時に“黒人の真実の姿を描いた”という新人作家の“We’s Lives in Da Ghetto”が世の評判を呼び、さらにモンクを苛立たせます。
 そこでモンクは程度の低い読者のためにわざとストリート系の黒人が書きそうなステレオタイプの小説をスペル間違いだらけで捏造し、それを自分のエージェントに送ります。
 ところがそこでモンクに災難が訪れます。
 彼は実家の母親の面倒を姉に任せきりにしていたのですが、その姉を不慮の死が襲い、しかも母親がアルツハイマーを発症していることがわかるのです。もう一人の兄もゲイであることが妻にばれて離婚、頼りになりません。母親の面倒をみるために経済的に追い詰められていくモンク。
 ところがエージェントから、自分の捏造した小説“My Pafology”が大評判を呼び、何百万ドルもの前払い金がオファーされている、との知らせが来ます。経済的に困窮しているモンクはその話を潰さないよう、覆面作家 スタッグRリーを演じることになりますが…

 という内容で、まあ前述したコンセプト通りのものになっています。ですが、実際に小説“Erasure”を読んでみると、意外なことに、この“黒人のインテリ作家がストリート系黒人のふりをする”という場面は小説の半分もないのです。
 ではそれ以上の分量で何がかかれているかというと、主人公モンクの家族関係とその生い立ちの回想なのです。この点でまず、あの面白げなコンセプトと小説の実体が少し乖離しているのが分かります。作者であるエヴェレットはインテリ作家がストリート系作家のふりをする、というドタバタ劇にはそれほど興味が無いようなのです。ではこの小説で主として書かれていることは何か?

 それはまず、黒人のインテリ中年の家族関係の描写や、その生い立ちの(少し感傷過剰な)追憶です。それからモンクの視点で語られる、現代の文化消費者が求める黒人像とそれに迎合した作品がもてはやされる風潮への批判。
 なるほどたしかにこの二点に軸足をおくことは、フィクションにおけるステレオタイプの黒人像への批判を実践するにおいては良い戦略だったと思います。
 しかしその分、ストリート系の作家を演じなくてはいけないインテリ作家のスラプスティック、という面白さは減じることになったと思います。実際小説の方では、モンクがストリート系黒人のフリする場面は殆どないのです。テレビショーに出演する時も、シールドの後ろに隠れて一言二言返事をするだけ。
 私のようにドタバタ劇を期待する低俗な読者はそこで裏切られたような気になるのですが、作家エヴェレットの目指すところはもう少しハイブロウだったということでしょう。ただその家族描写が私的にはあまりにもセンチであり、作品のエッジを鈍くしたと私は感じました。

 そしてこの家族描写への焦点は、映画にも引き継がれます。この映画でモンクの家族描写が多量なのは原作小説を踏襲しているからです。
 ただ、さすがに映画の方は原作小説よりもサービス精神が旺盛で、モンクはきちんとストリート系の作家のまねをして話してみせたりします。家族描写でも、ゲイの兄貴のキャラをたててより面白くしているところは良い。家族描写のはやはりセンチだと感じましたが、モンクの回想部分がないだけ抑制されていました。

 では小説と映画を比較すると、映画の方がエッジが効いていて、コメディとしてより面白いのか、というとそうは一概に言えないのです。
 何故かというなら、劇中でモンクが書く小説“My Pafology/ Fuck!”の扱いが小説と映画では全く異なるからです。
 映画の方で“My Pafology/ Fuck!”が映像化されるのは、モンクが執筆中に小説内の主人公が登場して、小説内の場面を演じる、その一か所だけです。“My Pafology/ Fuck!”の内容がそれ以上に映像化される場面はない。
 ところが小説の方では、モンクが書いた“My Pafology/ Fuck!”がまるまる十章掲載されるのです。それもご丁寧にWon,Too,Free,Fo,Fibe,Sex と章の番号を振って(笑)。

 これが小説と映画の最大の違いで、作品への感想が異なってくる点です。
モンクが批判するステレオタイプの黒人小説を実際に 読者に/観客に 読ませるか/見せるかどうか?
 
 そこで原作小説“Erasure”の中に引用される “My Pafology/ Fuck!”を読んだ感想を率直に言いますと、小説内小説である“My Pafology/ Fuck!”の方が本編 “Erasure”よりも面白かったんですな。
 それは“My Pafology/ Fuck!”の方が小説として出来が良かった、という訳では必ずしもない。ただ“My Pafology/ Fuck!”の方がよりアイロニカルであり、皮肉でありながら より暴力的で生き生きしていた、という理由です。

 ここは(多分)実作者エヴェレットが意図していなかった皮肉だと思います。“My Pafology/ Fuck!”はわざとらしいスペルミスと浅薄な主人公と乱暴な展開の三文小説であるはずなのに、本編“Erasure”の家族小説の場面より面白い。特に“My Pafology/ Fuck!”のクライマックスのTVショー場面は小説や映画でモンクが登場するTVショーの場面よりはるかに笑えるのです。

 私はパーシヴァル・エヴェレットの小説はこの“Erasure”しか読んでいないのですが、どうもこの人は家族小説よりアイロニカルな三文小説を捏造する方が向いている作家じゃないかと感じます。これまでの作品をみても「黒い」ユーモアを発揮した作品を書いてきているようです。感傷的な家族小説は本領ではないのではないでしょうか。
 正直、小説内小説との本編のバランスの悪さのせいで 私の“Erasure”の読後感は微妙なものであります。ちょっと手放しでは絶賛できない。

(ただ、表現のバランスということを考えると、この小説内で、モンクが実際に書いているという主流文学作品を引用してないのは不思議な点です。もっともその代わりに、モンクがヌーヴォーロマンの学会でロラン・バルトについて書いたいかにも現代文芸批評風のペーパーが“捏造”されて掲載されています。それがエヴェレットによる文学に対するアイロニーだったのでしょうか)

 ではその“My Pafology/ Fuck!”の内容を削除(erase)した映画の方はどうだったか、というと私はやはりサタイアとしてエッジが効いていなかった、と思います。勿論“My Pafology/ Fuck!” を削除した点が原作に忠実ではなく問題だった、ということではないです。完成してしまえば、映画と原作小説は別物ですから。
 ただ、“My Pafology/ Fuck!”を削除した結果、モンクが批判するステレオタイプの黒人像が、映画の方では殆ど提示されなかった、とは言えると思います。何等かのかたちで風刺の対象であるステレオタイプの黒人像を具体的に提示しても良かったんじゃないでしょうか。まさか黒人観客からの反発を恐れたわけでもないでしょうに……
 例えばモンク役のジェフリー・ライトが映画内映画でもっとがっつりチンピラ黒人を演じてみせる、なんて場面があったらどうだったろう、とか思うんですが、そこまで書くとレビューの域を越えてしまうので止めておきます。

 まあ結論めいたことを言うなら、小説“Erasure” も映画『アメリカン・フィクション』もフィクションの世界内でフィクションを捏造するというアイロニカルな行為に失敗し、サタイアとして中途半端になったと感じます。

 原作小説“Erasure” の方では作品内作品と作品本体のバランスがとれずにアイロニーがアイロニーとして機能せず
 映画『アメリカン・フィクション』では主人公が批判する「ステレオタイプの黒人像」を明示することを避けたため、これまたアイロニーが微温的なレベルにとどまった
というのが私の感想です。

 そこで例えば、原作小説も映画もサタイアとしてではなく、心温まる家族小説/家族映画として評価すべきだ、との考えもあるかもしれません。ですが、個人的にはそんな家族ものに全く興味を持てません。率直に言って、笑える作品かどうか、の方が遥かに大事だと考えています。
 いっそ“Erasure”も『アメリカン・フィクション』もスラプスティックコメディだったらよかったのに、というのが正直な私の感想です。

“Erasure” written by Percival Everett
Faber & Faber 2021 電書版

“American Fiction” directed by Cord Jefferson (2023)


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