086. 子育て十牛図|第五図 『牧牛』|付き合い立てなのに初々しくないカップル
一日一描。
子育て十牛図、今日は第五図です。
十牛図って何?という方はこちらをどうぞ。
つわりで牛が逃げる(第一図)
→子どもの情動と身体の不調の改善をアートに見出す(第二図)
→子どもにキラキラバイアスがかかってやることなすことクリエイティブに見える(第三図)
→子どもの引きずり回されるも引きずり回しているのは自分の好奇心だと気づく(第四図)
という段階を経て、まさかの付き合いたてのカップル?・・←今ここ。
第五図は『牧牛』ぼくぎゅう
(出典:Wikimedia Commons User:MichaelMaggs)
鞭策時々身を離れず
恐らくは伊が歩を縦にして埃塵に入らんことを
相将いて牧得すれば純和せり
羈鎖拘することなきも自ら人を逐う
(訳)
鞭と手綱は必要だ。さもないと、彼はどこかのどろんこ道へそれかねない
よく手なづけられれば、彼も自然におとなしくなる
そうなればつながれなくとも、彼は主人に従う
第三図・第四図と黒い色をしていた牛が、第五図では白い色に変わりました。影との対決が終わったのです。
何とか暴れる牛を飼い馴らそうと必死だった第四図までの対決のプロセスから、お互い違うものなのだから、その違いを理解し尊重して一緒にやって行こう、という信頼のプロセスへと移り変わったのです。
(第三図)
(第四図)
しかし、その関係性はまだ安定したものではありません。上の絵にある様に牧人はまだ手綱と鞭を手放すことができません。ともすると、牛が自分から逃げ出す、または自分が牛から逃げ出してしまうかもしれないのです。
瞬間瞬間を丁寧に、自分の内側から湧いてくる力をその都度その都度、信頼していくことが大切です。自分(牧人)ともう一人の新しく気づいた自分(牛)。双方が信頼関係を結んでいくプロセスです。
私の第五図は付き合いたてなのに初々しくないカップル
パワフルでクリエイティブな側面(牛)を我が子に、時にはパートナーに投影して、必死に戦っていた第四図までの自分。その中で、「あれ?これって全部私のことじゃない?」と気づいていきます。
あくまで私の解釈なのですが、この第五図が表しているのは自分の中の男性的な部分(ユング心理学でいうところの男性性)との調和を意味するのではないかと感じています。
*男性性と女性性について
ユング心理学では、肉体的な性別は男性・女性と別れているけれど、もともと人間はどちらの性も持っていると考えています。そしてそれは肉体の上での男らしさ、女らしさ、とは別物です。
要するに、肉体的に〝男性〟であるから、男性らしい振る舞いになってゆくけれど、男性の中にもきちんと〝女性性〟・女性的な側面が内包されています。
そして、男性は目の前の女性に対して、その女性的な側面を投影して恋に落ちたり、信頼関係を結んだりするのです。
逆に、肉体的に〝女性〟である場合は、女性らしい振る舞いになって行くけれど、女性の中にもきちんと〝男性性〟・男性的な側面が内包されていて、目の前の男性に対して投影されます。
異性を好きになったり、関係を深めていくのは、自分にないもの、欠損部分を補うためではありません。もともと自分の中にあるんだけど、肉体があるが故に感じにくいもの「目に見えない性」を見せてくれる相手と出会い、お互いに成熟させていくのです。
・・何のこっちゃ(笑)。ややこしい!またイラストを添えて詳しく書いてみようと思っています。
で、話は私のことに戻りますが。
第五図は、自分の荒々しくてよくわからなず相容れない部分、野性的な部分、つまり牛の最終局面は私の中の男性性へと変わる。くっついたり離れたり逃亡したりと紆余曲折あった末、何とか彼と付き合うことになる。まぁ色々とあったけれど、これからはちょっとずつ仲を深めていきましょうね。と一緒に歩んでいくことを決めます。でも何でしょう、初々しい感じというより、やっと、というか、元さやにおさまった感が否めません・・(笑)。
イラスト描いていて自分でゾッとしたのが、牛(男性性)は思いっきり尻尾掴まれているし、女性は鞭もっているとか・・。ほんと怖すぎ(笑)。
つづく。
娘の十牛図
一緒に十牛図のお話を読みながら描いているので、何となく娘も一緒に進んでいる感じです。
夏の風景
そしてアナ雪。
これはエルサが「アートハランへは私一人で行くわ」の絵。
「やっと会えたわ」の絵。
アートハランで白いドレスに変身する。
ん??娘よ、ちょっと先に進んじゃってない??
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